第14話 〜恋心〜


 バレンタインデー。それは、恋人達が互いの愛を確かめ合う日。
 大好きな人に、自分の愛情を込めた贈り物をする。女の子が一度は憧れることだ。子供のうちから実践する人も多い。大人達はそれをほほえましく見守ったり、うらやましいとぼやきながら眺めたり、時には自分の商売に利用する。
 授業中にぼんやりと窓の外を眺めるベルも、「その日」を待ちわびる1人である。時々、ノートの隅にスケッチした横顔とそのモデルを交互に見ながら、何と言って何を渡そうかと考えている。
 前回のチャンス──クリスマスには失敗したけど、次の時には気持ちをはっきり言おう。ジュンに励まされ、何回か試みた。その度に挫折した。でも、今度こそ。


 「誘拐作戦」の失敗以来、クリスは自室から一歩も出なかった。いや、出られなかった。
「よくも……」
 鏡の前に立つと、ミイラもどきの顔が映った。震える手でゆっくり包帯をほどいていくうちに、隠していた素肌があらわになる。痛々しい火傷の痕。これでも半月前よりはよくなった方だ。
「あの子供(ガキ)……今度会ったらただじゃおかないわよ」
 同時に、鏡に映った「醜い男」の姿をののしる。今まで見くびっていた子供に顔を焼かれたことは、彼にとって屈辱以外の何でもなかった。
 同じ時に重傷を負ったエーディンは、階下の隠し部屋にこもって機械をいじっている。アトラスは何故か帰ってこなかった。幸いにも軽傷で済み、唯一まともに動けるミディールに「次の作戦」を任せたものの、どこか不安が残る。
 今は何をしたらいいのかしら。深く大きく、ため息をついた。


 2月14日、朝。
「え? これ、本当にいらないの?」
「君にあげるよ。捨てるのももったいないだろうし」
 レイは机の中に入っていた箱を、中身を確かめもせずジーノに渡してしまった。添えられていたカードに差出人の名はなく、どうしていらないと言い出したのかは誰にも分からなかった。
「大嫌いな相手がプレゼントを用意しているのを知っていた。そういうところでしょうか」
「別人だったらどうすんだよ……よっぽどそいつから受け取りたくないんだろうなぁ」
 半ば呆れているジーノとトムは既に視界の外。心につきまとう誘拐犯の影を振り払うように早足で教室を出て階段を下っていると、踊り場にさしかかったところでベルに会った。
「あ、おはよう」
「……おはよう、ございます……あの、あ、あのぉ……」
 言葉を詰まらせるベルの顔をのぞき込んだレイは、心配そうな表情で彼女の額に手を当てた。
「顔赤いけど大丈夫? 熱あるの?」
「え、いえっ、そうではなく……あの……」
 ベルは慌ててポケットの中に手を入れ、何かを探し始めた。しかし、入れておいたはずの物が見つからない。焦って何度も手を動かすうちに、チャイムが鳴ってしまった。
「おはよー! ……みゅ?」
「2人とも、こんな所で何してるの?」
 さらにティオとチェリーも現れ、ベルは結局「何か」を渡し損ねてしまった。


 中学校の正門前。次々と現れる生徒の視線が、見慣れない男女に注がれている。
(こんな日に……こんな日に限って……)
 隣でデジタルカメラの調子を確かめる同僚を、アズサは恨めしそうににらんだ。週刊誌の記者という仕事柄、スクープの可能性があることなら取材に行かなければならない。それは十分承知している。しかし今回は、今回だけは許せそうにない。
(いるわけない生き物の取材なんて……しかもこんな奴と一緒に!)
 「妖精を見た」と主張する男、オリバーはアズサの天敵である。
 ルックスはまあまあ、服のセンスも悪くはないからそばにいても嫌悪は感じないが、とにかく鈍い。以前にも仕事の名目で彼女を振り回したことが何度もあったし、今回も、彼女の不機嫌の理由──休日とデートを一度に潰されたこと──を知っていてもおかしくないのにそれを完全に無視。妖精の存在が嘘ではないという証人になってもらうためだけに、彼女をここに連れてきた。
「確かに見たんだ、車を運転してたらさ、普通に歩道の上を飛んでたんだ。一緒にいた子供は年頃から考えて、ここに通っていると見て間違いない」
 自信たっぷりに笑う彼を、周囲は変な目で見ているに違いない。アズサは他人のふりをして逃げたかったが、仕事という言葉が彼女をこの場に縛り付けて離さない。


 「レイ? さっき先生に呼ばれて出てったけど」
「分かりました……ありがとうございます」
 授業が2つ終わった後の休み時間。ベルはティオに頭を下げた後、きれいにラッピングされた小さな箱を後ろ手に隠しながら教室を出た。
 騒がしさが、扉を閉めた途端に遠ざかる。自分を応援するジュンの瞳が最後に見えた。
 友達の同行を断る勇気は出せた。しかし、目指すハードルはもっと高い。緊張で赤らめた顔が分からないよううつむいて歩いていると、前から来た誰かにぶつかった。
「……先生。次の授業、ですか?」
「そうだよ。今日は小テストって前から言ってたけど、勉強したかい?」
「あっ……」
 すっかり忘れてた。緊張に恥ずかしさが上乗せされる。
「戻ろうか。チャイムまであと何分かあるし、まだ間に合うよ」
 優しく言ってくれた先生に従い、教室に駆け戻る。少し開いていたドアをさらに動かした途端、目の前を粉雪が舞った。
 床に落ちて転がった黒板消し。ベルの頭は中も外も真っ白だった。
「ちぇっ、先生じゃなかったか……」
 笑い声に混じってジーノの舌打ちが聞こえてきた。全ての事情を物語る言葉も、ざわめきを吹き飛ばした先生の一喝も、その間に立つ少女の耳には入らない。すぐに駆け寄ったジュン、よろけながらハンカチを運んできたチェリーの姿を映す目は、涙を流すことさえ忘れている。
「やっていいことと悪いことがあるだろう。すぐ謝るんだ。それと、ここを片づけなさい。こんなこと仕掛けた全員、すぐにだ!」
「はーい」
 ジーノを始め数人が、低くうなるような返事と共に立ち上がった。誠意が2割ほどしかなさそうな謝罪のセリフが後に続く。そして彼らは床を拭く雑巾を取りに、ゆっくり歩き始めた。


 あと30分。
 腕時計に目をやったレナードは、自由に過ごせる時間の残りを瞬時に計算した。本来は授業中であるはずのこの時間に「自由」などと言っていられるのは、口うるさい数学教師が風邪をこじらせて休み、急きょ自習が決まったからである。
 彼は今、裏庭で最近見つけたお気に入りの場所にいる。見張りの先生がいないのをいいことに教室を抜け出し、生徒会室の窓から正面の木に飛び移ったのが少し前。太い枝の上に腰を下ろし、幹に寄りかかった姿勢で空を眺める。
 気持ちいいほどの快晴。ずぶ濡れになる心配はなさそうだ。
「ああいうのは自然を好むから……この辺にいるかもしれない」
 下の方から声がした。体を起こして見下ろした先に、今朝門の前で見た2人組の姿があった。
(もしや、アレのことを嗅ぎつけて……ついに来たか)
 懸念が現実になろうとしている。すぐにチェリーの元へ駆けつけて危機を知らせようかとも考えたが、それだけでは面白くない。それに別の厄介事を呼び込む可能性もある。
「変に音を立てるなよ。え? 分かってる?」
 何かを探して塀の外をうろつく2人。誘導する男と戸惑う女、どちらも木の上までは見ようとしない。彼らは壁沿いに忍び足で歩き、角を曲がって校舎の陰に消えた。
 顔を上げると、向こうの枝の上に立つ人影が見えた。怪しい2人を見張っているようだったその人物は、足音が完全に聞こえなくなると木の上から飛び降りた。
(なんか今日は変な奴が多いな……えーと。こういう時は……)
 レナードは首から提げた双眼鏡を構え、難なく着地した男がはっきり見えるようピントを合わせた。腰のベルトに挟んだ剣。片腕に抱えた白い箱。そして最大の特徴は、揚羽蝶の羽を背負っていること。出版社の社員証を持った2人の件と合わせ、全てを生徒会長に報告しなければならない。


 「気にすることないよ、プレゼントは無事だったんでしょ?」
 昼休みの、学校の屋上。金網を背に膝を抱えて座るベルの表情は明らかに暗く沈んでいる。
 粉をかぶったことの何がそんなにショックだったのかは分からない。買ってきたパンを抱えて現れたジュンはとりあえず声をかけたが、ベルが立ち直りの早い性格でないことくらいは知っている。
「今からそんな顔してどうするの。2月14日はまだ終わってないのに。ほら、これ食べて元気出して」
 ジュンは微笑みながらベルの右隣に腰を下ろし、両手に抱えた袋のうち2つを手渡した。一時的に食欲が憂鬱な感情を上回り、ようやくベルの指先が動いた。袋の中から端をのぞかせたメロンパンをそっと口に運ぶ。舌の上に広がる甘味が、何故だか涙を誘った。
「……泣かなくても……ベル……ねえ、本当に大丈夫?」
 視線を友達のうるんだ瞳に固定したまま、ジュンは自分の昼食に手をつけた。彼女がサンドイッチ2個を飲み込む間に、隣のメロンパンは半分しか無くならなかった。
 伸ばした手が3個目に触れたその時。
 屋上の入口に別の人物が姿を見せた。
「あれ?……サマンサ先輩……も、ここで食べるんですか?」
「たまにはいいかと思いまして」
 サマンサはポケットから出した布で眼鏡の汚れを拭き取ると、ピンクの布に包んだお弁当を足下に置いた。
「それ、もしかして先輩が作ったんですか!?」
「ええ……最近、自分で作ることの楽しさを覚えたので」
「じゃあもちろん、バレンタインデーのも手作り……あ、そういえば誰かにあげるんですか?」
「えっ……? い、いえ、特にそういう予定は……」
 サマンサは2人の正面に腰を下ろすと、手早く弁当箱を開けた。後ろ向きな考えに囚われていたベルがいつの間にか、興味深そうに生徒会長の手元を見ている。しかし一言も喋らない。さっきまでは饒舌だったジュンも、やがて口をつぐんでしまった。
(うわぁ……意外です、まさか先輩が……)
(見た目で考えると、誰にもあげない方が賢明かも……)
「?」
 本人だけが、その不器用さを自覚していないらしい。


 同じ頃、突然の知らせにティオは困惑していた。チェリーは聞き慣れない言葉に首をかしげている。
「しゅざいってなーに?」
「後で説明するよ。取材か……それじゃ、うかつに外へ出られないな……」
 問題の2人組が学校周辺に出没する理由は妖精狙いとは限らない。しかし、来たときには知らなくても気がついたら写真の中に写っていた、なんていうこともあり得る。
「でも、どうして正面から取材させてくださいって言いに来なかったんだろう?」
「許可が下りないような用事なんだろ、きっと。学校のお偉方が何かやましいこと抱えてるとか。何にしても後で捕まえたら分かるさ」
「先輩、見つけたんだったらその時に聞けばよかったのに……」
「それはちょっと……俺が後で困るんだよ」
 “第一発見者”のレナードはそっぽを向いた。自習とはいえ彼が授業をさぼったことに変わりはない。怪しい人物をその場で捕まえたからといって、科せられる罰が軽くなるとは思えなかった。生徒会長の性格を考えると、余計なことをしたと言って罰が増える可能性も否定できない。
 用件を全て伝えた彼は帰りがけに、こんな言葉を付け加えた。
「その、取材の2人とは別に、蝶の羽をつけた奴もいたな。敵の刺客だったりして?」
 残ったのは奇妙な沈黙と、無関係な人達の絶え間ない話し声。長い思考の後に立ち上がったレイが突然早退を宣言するまで、ティオはもちろんチェリーも微動だにしなかった。
「早退!? お前どうかしてるよ、今朝も何か変だったし……」
 異変を心配するクラスメートの声が行き交う。
 その中で、大体の原因を悟ったソフィアはティオの隣まで近づき、黙って彼の指輪を指した。
 無言のままうなずくティオ。
 2人の間からのぞき見たルークの目にも、銀のフレームに収まった薄墨色の石──すなわち、敵が近くにいるサイン──がはっきり見えた。


 昼食を終え屋上から戻ってくる途中、ジュンとベルの会話は「想像以上の味」の話題から離れなかった。ベルは笑顔を取り戻している。おいしい物を食べたからなのか、サマンサには今までの経緯を話しただけなのに、不思議と気持ちは前向きなものに切り替わっていた。
「次のチャンスは放課後だね。私がレイを呼びだして、裏庭で……っていうのはどう?」
「どうしましょう……」
 廊下をゆっくり歩く2人。今日渡すことには特別な意味がある。逃す手はないのに、いまいち自身が持てないベルは迷っていた。いつかは言わなければならない。必要なのは、ほんの少しの勇気。
「…………? 今、何か聞こえませんでした?」
「ベルも聞こえた? 誰か叫んでたよね……女の人だと思うんだけど」
 次の瞬間、眼前の教室から2人の生徒が飛び出していった。何かから逃げるような様子を読みとったジュンが教室の中に目を向けると、わずかな間だけだったが窓の外に何かが見えた。
(蝶の羽? ……あれは……錯覚?)


 窓の外に敵の姿を認めたティオは、戦いを挑むために──というよりは追い返すために校庭へ飛び出した。チェリーは置いて行かれないよう肩にしがみついている。後ろからついてくるルークは、マントの中に引っ込めた手で何かを探っている。
 昇降口を抜けると、敵は既に地面へ降り立っていた。剣の柄にかけてもいいはずの手で抱えた箱から、甘い香りが漂ってくる。
 依然聞こえてくる叫び声の音源は彼の後ろにいた。今朝から学校周辺に出没していた2人の記者が、黒い雲のような物から逃げ回っている。
「私達何もしてないのに! こっち来ないでよ〜っ!!」
「蜂の大群みたいだね」
 ルークは冷静に分析した。
「ということは、あの箱は巣かな?」
「ご名答。私の邪魔をした罰だ。逆らうようなら貴様らも同じ目に遭うだろう」
 半月前の誘拐事件以来2度目の手合わせ。ミディールは箱を足下に置くと、剣を鞘からすっと抜いて刃先を正面に向けた。
 背を向けたら蜂が襲ってきそうな気がする。ティオから「逃げる」という選択肢が奪われた。
 一方で余裕の表情を浮かべる敵。一度学校の屋上くらいの高さまで飛んでから、急降下してきた。
「後ろのうるさいのは、僕が片づけとくから」
 ルークはティオに背を向け、指2本を口にくわえて強く吹き鳴らした。合図の音に合わせて黒い影が舞い降りてくる。
「アマーロ、これをまき散らせ!」
 そう言って小さな巾着袋を投げると、飛んできたカラスは両足でそれを受け取ってから大きく旋回し、蜂の群れから逃げる2人の正面に回り込んだ。そしてくちばしの先で器用に袋の口をゆるめ、中に入っていた青紫色の粉を風の中に放った。
 直後。飛んできた粉を吸ったアズサが、オリバーが、前に倒れ込んでそのまま動かなくなった。後方で巻き添えになった蜂たちも、次々と地面に墜ちていった。
「相手が虫なら弱点は多分、冷気……寒さだ!」
 教室の窓から顔を出したレイが叫んだ。確かにそうだ。蜂が真冬の気候でも活発に動き回れるなんて、聞いたことがない。
 冷気? どんな感じ?
 ティオはとりあえず氷を思い浮かべた。指輪が青白く光る。同時に自分の指先も冷えてきたが、それは耐えるしかない。呪文がまとまるとすぐ唱えた。
<ブリザード!>
 足元から風がわき起こる。らせん螺旋を描いて立ち上る空気の流れに、白い粒が混ざり始める。わざとらしい「決めポーズ」のように指輪を敵に向けてみると、その方向に風が吹き荒れた。
 対する敵は無表情のまま突っ込んでくる。冷たい向かい風を浴びながらもリアクションは全くない。途中で一度だけ羽ばたき、ティオの頭上すれすれを通過して再び上昇した。
(効いてない……!? しかも斬りかかってこないし……どうしたんだろう)
 不可解な行動の理由はすぐに分かった。ミディールが通過した後に残る気流の乱れに、魔法で作った冷気が流れ込む。
 そして──逆流した吹雪がティオを襲った。


 「動かなくなった……今、何があったんだろう……」
 2階にある教室から「高みの見物」をしている生徒達には、風の動きまでは見えなかったらしい。突然ティオの動きが止まったので、レイは心配そうにしている。
「あーあ、自滅しやがったな」
 騒ぎを聞きつけて戻ってきたレナードが、持ってきた双眼鏡の照準を合わせて言った。
「何がどうなったんだか知らねえけど、あいつ自分の魔法で氷漬けになってる」
「それ貸して下さい。……本当だ。チェリーちゃんは無事だったみたいだけど……」
 レイが借りた双眼鏡をのぞき込むと、ティオを盾にして吹雪を逃れたチェリーの姿がなんとなく分かった。程なく魔法の指輪が赤く光り、氷が水蒸気を吹き出して溶ける様子がはっきり見えた。
 次にルークに注目した。飛び去った敵を追うようカラスに指示した後、薬で眠らせた2人を叩き起こしている。蜂は吹雪の余波を受けたせいか、完全に動かなくなっていた。
「気の毒なのはあの人達だ……」
「……ぇ……ぁ……あのぉ…………」
 いつの間にか、レイの隣にベルが立っていた。限界まで赤くなった顔を隠すようにうつむいている。
「そう言えば、今朝も何か言いかけて……?」
「……これっ」
 ベルは赤いリボンの付いた箱をレイの手の中に押しつけ、全速力で教室を飛び出していった。クラス中の注目を浴びたのがつらかったのだろう。結局、何も言えなかった。
「………………」
 こんな日に女の子からプレゼントをもらうとは。面白がってはやし立てるジーノ達をひと睨みで黙らせたソフィアは、一部始終を見届けることしかできなかったジュンに目配せした。ベルがクリスマスの時と全く同じ経緯をたどってしまったとなれば、自分達にできるフォローも限られる。
『……でもやっぱり、言葉でしか伝えられないこともあると思いますし』
 そう言ったのはベル自身なのに。どうしてうまくいかないんだろう?


 「……カメラは無事?」
「私に聞かないでよ……持ってるのはそっちでしょ……?」
 黒マントの子供に「早く逃げないと、仲間連れて戻ってくるかも」と脅されたオリバーとアズサは、2人並んで校門の前に座り込んでいた。結局「妖精探し」は振り出しに戻ったのである。
「それにしても気のせいかな、さっき妖精らしきものが見えたような」
「気のせいよ!」
 アズサははっきり言い放ってから、大きなため息をついた。自分から誘っておいて、すっぽかして。嫌われたかな。彼女にとっては成果無しで会社に戻ることより、人に待ちぼうけをさせてしまったことの方が深刻な問題だった。
 もう一度探しに行くつもりなのか、オリバーが腰を上げたその時。
「今日はやめにしておいた方がいいぞ」
 声が飛んできた方角を見ると、塀の上に緑髪の若者が座っていた。何か楽しいことを教えたくて仕方がない、そんな表情をしている。
「邪魔しないでくれないか、こっちは仕事なんだ」
「その、仕事の話なんだけど」
 若者は塀から飛び降りオリバーの目の前に軽々と着地すると、自分の後方にある車道を指差した。
「この先3つ目の交差点を右に曲がって、少し行ったところにホテルがあるのは知ってるだろう? そこの裏口を見張ってろ。いいものが見られる」
(ホテルの裏口……見張る?……どういう意味だ?)
「あと10分しかない。急げ」
 軽く背中を叩かれたオリバーは、半信半疑のまま走り出していた。アズサもその後を追いかけようとしたが、すぐに呼び止められた。
「お前は行くな。伝言を預かってる」
「何? ……誰から?」
 告げられた名前に心当たりを見出し、アズサの顔がみるみる明るくなった。怪しげな若者の言葉に首をかしげたオリバーと違い、彼女の心に疑いが入り込む余地は失われていた。
「ねえ、彼は今どこ……どこにいるの!?」
「そう慌てる必要はない。噴水の前だ。今なら間に合う」
 若者が指し示したのは、学校の真正面にある公園だった。真っ直ぐ奥まで続く並木道の途中に噴水はある。そう聞いた直後、「ありがとう」と言いながら手を振るアズサの姿は既に遠ざかりつつあった。
 お願い、もう少しだけそこで待ってて。今行くから──


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