黙祷の風車

「the first junction」収録作品


   1

『今なら、そう「今」に限れば、そこは地上のどこよりも安全かもしれない。でも分かるだろう。その安全は決して長くは続かない。繰り返す、計画は中止だ。帰ってこい。お前たちを救う手段はもうそれしかない』
 青い星に呼ばれる夢だ。
 これで何度目になるだろう。いつ頃それを数えるのをやめたかさえ忘れてしまった。

 目を開けた私はしばらく自分の現在位置を思い出せなかった。どうやらベッドの上らしい。横を向いた顔の正面に閉ざされたブラインドがあり、隙間から暖色の光がわずかに差し込むから、夜が明けて間もない時間帯と判断した。これはまだ夢の中なのか。頬に感じる冷たさのどこまでが錯覚か。
 寝返りを打ち、右隣に誰もいないことに気づいてから、ようやく夢に代わる現実の記憶が浮上してきた。
 私は昨日まで旅をしていた。口うるさい少女と二人、車で荒野を走り続けた。怪物に追い回され、車中で夜を明かし、人里離れた土地に建てられた巨大な施設にたどり着いた。そして。
(ああ、そうだ、終わったのか)
 思い出した。
 私は一人の少女に金で雇われ、彼女が手に入れた珍しい品を共に取引先へ届ける仕事を担った。本来なら積み荷を引き渡した時点で私の役目は終わり、翌日の仕事を探す生活に戻るはずだった。
 ところが、施設を去ろうとした私は何故か依頼人と取引相手の両方に引き留められた。後者の言い分は翌朝に街まで送り届けるから今日は休んでいけというもので、立地を考えるとごく自然な提案だった。だがもう一方は何を望んでいるのか、少しも語ろうとしなかった。
「明日、こっちの用事が終わったら呼び出すから。それまではここにいてね」
 最後に見たのは二つ結いの髪を揺らしながら歩き去る後ろ姿。彼女は今どこにいるのだろう。

 昨夜は取引相手の厚意に甘えて従業員用の仮眠室を借りていた。薄い壁で仕切られた小部屋に簡素なベッドがあるだけの空間だったが、私にとっては久々にありついたまともな寝床だった。ここ数日は車中泊、その前はぼろきれ同然の毛布一枚で雨風をしのぐ生活が続いていたから、起床後は必ず体のどこかが痛かった。今朝はそれがない。
 不思議な心地に包まれてベッドから降りると、その傍らに見覚えのある鞄と無地の紙袋が置かれていた。一方はこの施設へ入る際に警備上の理由と称して没収された私の手荷物だ。そして紙袋には綺麗に洗濯された衣類、そしてメモ用紙に記された――想像さえしなかった――私への指示が入っていた。
《これに着替えて待っていること。施設を見学してもいいけど、塀の外には出ないように》
 署名はなかったが差出人は見当がつく。藍との契約初日に渡された買い物リストに筆跡がよく似ていた。
 私は新品の衣服に袖を通し、学術団体のロゴが入ったパーカーを羽織ると、鞄と紙袋を持って仮眠室を出た。もちろん脱出するつもりはなかったが、共用スペースに私物を置いておくわけにはいかない。
 長い廊下では誰ともすれ違わず、点在する部屋はすべてカードキーと生体認証の二段構えで閉ざされていた。事実上の一本道を進んだ先には一つだけ鍵なしで開く扉があり、そこを通ると建物の外に出た。
 ここは例のクリーチャーの調査と解析を専門に掲げる研究施設だ。広大な敷地に並ぶ真っ白な建物はどれも面積こそ広いが、今の時代の例に漏れず低層棟ばかり。舗装された地面は建物の外壁とほぼ同じ色で、植栽どころか雑草さえ生えていなかった。頑丈な門の向こうに荒野が見えていなければ、巨大な建造物の屋上にいるように錯覚したかもしれない。
 建物の間を当てもなく歩きながら、到着したときの出来事を思い返した。

 巨大な研究施設を見るのは久々だった。私は勝手に浮上してくる若き日の苦い思い出を意識から振り落とし、立派な門とその周辺に仕掛けられた警報装置を数えた。中には私が知らない最新の装置も何種類かあるだろう。
 この警備に囲まれた場所で何をするのかと藍を見ると、いつの間にか車から降り、正面から人間用の門に突撃しているところだった。当然警備員が出てきて少女を足止めするかと思いきや、彼らは何も問わず彼女に道を譲った。後部座席に積んでいる物騒な物体、すなわち凶暴なクリーチャーの頭部についても確認は一切行われなかった。
「中の人にはもう話を通してあるの。言う通りに走って。これを引き取る人たちが待ってるから」
 まさかの顔パスだった。彼女は既にこの施設と何らかの関係があるようだ。

   2

 ろくなことに使われないのではと思っていたクリーチャーの首は、ある研究チームのために用意したものだという。あの三つ首の怪物は頭の一つを切り落とした程度では死なず、他の頭が生きていれば失った頭を再生できるらしい。その仕組みを解明すべく本物の頭部を要求した人物がいたと藍は言う。
 だがなぜ研究チームはサンプルの収集を、特殊な能力があるとはいえ、少女一人に任せていたのか。
「取引ってやつだよ。あの子の場合は珍しくない」
 首の引き渡しに立ち会い、後に藍をどこかへ連れて行った若い研究員が、密かに教えてくれた。
 彼は同僚からウェンズと呼ばれていた。本名はごくありふれた名前だった。しかしそれが運営団体の理事とミドルネームまで完全に同じという偶然のために、「水曜日(Wednesday)に入所した」ことにちなむ呼び名が定着したらしい。
「学校も研究もサボって好き勝手に出歩くのをよく思っていないやつは当然いる。だけど、その好き勝手のついでにこうやってお土産持って帰ったりして、『成果』だけはきっちり上げてくるから、結局みんな黙らされるってわけ」
 今回の件でもそんな効果を狙って自ら手を挙げたようだ。
「せめて見張りがついていればな。ただでさえ超貴重な『呼ばれた子供』に逃げられたら……いや、何でもない」
 聞き返そうとしたが、彼の視線は一切の言及を拒んでいた。

 幾度目かの曲がり角を覗き込んだとき、その記憶と同じ横顔が目に入った。
「あっ」
「おはようございます」
 私が声をかける直前にこちらへ振り向いた研究員ウェンズは、寝起きの状態にとりあえず白衣だけ羽織ってみた、といった印象の出で立ちだった。癖が強いらしい髪は昨日よりさらに乱れ放題になっている。
「おっさん、もしかして迷子? それとも脱走中?」
「いいえ、ちょっと散歩を」
 とっさに返してから、違う(ノー)とは言い切れないことに気づいた。
 ここにはどちらを向いても同じ作りの建物ばかり。玄関に看板がないため、それぞれが何を扱う施設であるかが全く分からない。しばらく歩いてきた道には行き先や現在地を確かめられる案内板の類いが一つもなく、太陽が出ていなければ簡単に方向感覚を見失いそうだった。
 今から来た道を引き返そうとしたとき、私は元いた建物までたどり着けるのだろうか。
「あそこから出るなって言われなかったの」
「聞いていません。今朝いただいたメモには、塀の中であれば見学して良いとは書いてありましたが」
「マジか。それであんな連絡……ここ関係者でも地図ないとフツーに迷うのに」
 ウェンズは後頭部をかきむしってから、私の前に出た。
「じゃあこっち、ついてきて。俺でよければ案内するんで」
 彼は出会った地点から一つ先の建物へ私を招き入れ、その中を案内しながらこの施設の概要を説明した。
 この世界が一変する前から文化財の保護を行っていたとある財団が、歴史の遺産を新たな脅威からも守るため、謎のクリーチャーの正体を科学的に調査する拠点を設立した。その目的は人類の敵を打ちのめすことではなく、あくまで共存の道を探ることらしい。
 そういえば私が見たこの施設の雰囲気や職員の態度には、侵略者の影も戦乱の気配も薄い、どこかの学び舎のような空気が感じられた。財団が企業や大学に協力を呼びかけ、民間の力だけで設立したという経緯が影響しているのだろうか。もし政府が同じテーマに取り組もうとしたなら、そこに軍が関わらないでいることは難しい。
「ところで藍は今どちらに」
「うちのチームのラボ、それかリーダーのとこかな。お説教と検査あるから多分午前中は動けない」
 そういえば彼女は移動中に文句を言っていた。
『えらい人は難しい単語並べた名前で呼んでくるし、学者だって人は記号みたいな名前で呼びたがるけど、どっちも可愛くないから嫌いなの。さん付けはその次に嫌い』
 あれはこの施設の人々から「研究材料」として見られる、つまり人間扱いされないことを暗に言っていたのだ。抱いた感情は理解できる。年齢も性格もあまり関係ない。

   3

 はっきり言って私は招かれざる客だった。施設の案内はしてもらえたが、ゲスト用の見学コースに限られていたし、訪れた先々で不審な目を向けられた。良い扱いといえば立ち寄った休憩スペースで軽食を分けてもらえたことくらいだ。
「あれは風洞装置。人工的に風を起こしていろいろ実験できる。おっと悪い、こっちの通路も部外者立ち入り禁止だった」
 ウェンズは客人の案内役に慣れていない様子だった。一区画進むごとに情報端末の画面を睨み、話してもいい情報を探しながら読み上げている。時折作業中の研究員に声をかけられ、事情を説明する場面も見られた。
「昨日ここへ来たとき、彼女は『話を通してある』と言っていました。あなたは何か聞いていましたか」
「聞いてない」
 ふと頭をよぎった疑問を口に出してみると、一秒と空けることなく言い切られた。
「荷物運ばせるために実家の使用人を連れてきたとか、運び屋を手配したから受け取りよろしくとか、そういうことはあったけど。輸送のためにわざわざ人を雇って、ついでに一晩泊めさせろ、だなんて初めてだ」
 自分の部署に降りかかった雑務を面倒そうに語るウェンズから、彼が曲がった角の先へと視線を移すと、今日目にした中で最も長い廊下が現れた。一直線のようだがよく見るとわずかに歪んでいる箇所があり、そこだけが他の場所より一段明るかった。両側に窓を備えた渡り廊下だった。
 ガラス越しに見る荒野の景色は、昨日まで車窓から見ていたそれと同じようで全く違っていた。
 塀の先には土の絨毯がどこまでも広がっている。その広い平面の中に、白い物体がいくつか点在していた。風力発電用の風車だ。周囲には風向きに影響する障害物がなく、人家もないので騒音のクレームもつかない。なるほど相応しい立地だが、わざわざこの施設のために建造したのだろうか。
「あー、あの風車? あれでうちの電力の一部を作ってる。人呼んで『魔除けの風車』」
「魔除け?」
 科学の最先端の城塞とかけ離れたような言葉が引っかかり、聞き返した。
「よく見て。一つだけ他と少し色が違うの、分かる?」
 具体的な指示を受けて凝視すると、ようやく違いらしい違いに気づいた。私達から見て左端の一基にだけ、羽の根元や柱に黒のまだら模様がある。
「先輩から聞いた話なんだけど、昔ここには風力と太陽光の発電所があった。まあソーラーの方は例のイキモノの爆撃で見事壊滅したんで何も残ってないけど。で、そのとき何を思ったか、あの風車に突撃したやつがいた。ところが風車の懐に飛び込んで組み付こうとした途端、そいつは回っていた羽に首を叩き折られて即死した」
 その生物の姿は分からなくても、最期の場面はおよそ想像がついた。
 つまり風車の変色は激戦の痕跡ということか。
「悲惨な討ち死にを見た仲間はみんな、やばいと思ったんだろうな、すぐ逃げ帰ったらしい。それ以来あのあたりには物騒な連中が寄りつかないんだって。こういう施設ができてからはずっと観測中らしいけど、マジでどのイキモノも風車の近くまで来ると迂回するらしい」
 クリーチャーとの戦いを記憶する風車。それがあるからここに拠点を置いたのか、あるいは拠点の近くにたまたま格好の題材があったということなのか。そこまではウェンズも知らないようだ。
「そのとき火炎や熱線で攻撃されていれば、今頃ここには何もなかったかもしれませんね」
「どうだろう。意外と懲りないのは人間のほうだし」
 それはもしかしたら、クリーチャーの脅威に立ち向かおうとしている自分たちのことを言ったのかもしれない。

「そういえば、おっさんの方はなんであの子と関わることになったの?」
 建物内の見学が一通り済んで、職員用の運動場の脇を歩いていたとき、唐突にウェンズから尋ねられた。
 私が藍と出会ったいきさつを大まかに話すと、彼は首をひねった。昨夜彼が見ていた限り、彼女が私のことをただの日雇労働者だとみなしている様子はなかったらしい。
「それが本当なら、昨日言われた通り、ここへアレを運ばせるためだけに? マジ? そんな感じには見えなかったけど」
 ではどのような様子だったのか。
「……いや、多分気のせいだ、忘れてくれ」
 彼は自らの思いつきを打ち消すように首を振ってから、より詳しい話を求めてきた。

   4

「逃げようとは思わなかったの」
 藍がクリーチャーの首を刈り取った経緯を一通り聞いた後、ウェンズは顔をそらしてつぶやいた。
「あいつ、いつも危ない橋ばっかり渡るから。警察からマークされてなかった?」
 しかしそれも彼にとっては余計な一言だったらしい。失言をごまかすように、私へ矢継ぎ早の質問をしてきた。
 たとえば私達が乗ってきた白い車の出所。彼は私がそれに乗っていたから声をかけられたと思っていたらしい。実際には藍が条件を指定し、中古車を集めた倉庫のような店に私を連れて行き、購入する車を自ら指定した。その時点で彼女はクリーチャーの首を積み込むことを前提に輸送手段を探していたのだろう。
「おっさん大丈夫なの、体調とか。俺たちみたいな物好きと違って、普通の人があのペースに付き合おうとしたら、寿命が三倍速ぐらいで縮むと思うんだけど」
 彼は一つ話すたびに口を閉ざし、何かを考えている。自分の失言以外にも何かを懸念しているようだった。
「話変えよう。あの子に会う前におっさんがどんなところにいたのか教えてよ。最近ここから出てないから、他の街の様子とか知りたい」
 そこへ単調なリズムの電子音が割り込んだ。発信源は案内図を表示していた情報端末だった。
「おっ、来たかな」
 ウェンズが側面のキーを一つだけ押して、おそらくテキストメッセージを開いたのだろう。口角をつり上げた。
「やっぱり。お待ち遠様でしたお客様、あの子からのお呼び出しですよ」
 わざわざ読み上げられたメッセージによると、藍はいつも滞在するフロアで自身の「用事」を終えた後、私と「大事な話」をするために場所を確保したという。
 一通り読んだウェンズは、建物名と部屋番号だけを再度読んでから口先をとがらせ、それから端末上に再び地図を展開して道順を確認し始めた。何度も画面をなぞる指が複雑な経路を描いている。彼のチームは少なくとも現在地とは別の研究棟にいるようだった。
「何がそんなにツボだったんだか……」
 見学コースから外れていく移動の途中、そんな内容のつぶやきが聞こえたが、気づかなかったことにした。

 屋内外を交互に渡る複雑な道を半ば手探りで進み、ようやくたどり着いたフロアは、正体不明生物の研究室というよりは病院のような匂いがする場所だった。通された部屋はテーブルとそれを囲む椅子があるだけの小さな会議室だった。
「ほら、ここ来る前に言ったじゃない。ちゃんとするって」
 藍は一枚の紙を用意して待っていた。それは簡素な書類で、雇用契約書と明記されていた。
「一回限りじゃなくて、これからもわたしのこと、いろいろと手伝ってほしいの」
 数日前までの私は思考停止した状態で、契約を仲介した友人に勧められるままサインをしていたはずだ。ペンを走らせた記憶さえ既に危うい。
 だが今は違う。契約書の隅々まで目を通しても意味不明な箇所など一つもなく、少女が私に何を期待しているのかもよく分かった。そして彼女が重大な事実を見落としていることも。
「お話は分かりました。ですが、それを承るには一つ条件があります」
「えっ」
 藍が意気込みに水を差された顔で私を見上げた。
「書類は確かによくできています。しかしあなたは未成年で、こういった話には親権者の同意が必要なはずです」
「同意がないわけなんかない。それはパパに頼んで弁護士に作らせたんだから。それにウェンズも立ち会うし」
「あなたにとってはそれで良くても、そういった点を問題視する大人がいつか現れるかもしれません。そのリスクを回避するためにも、電話でかまいません、あなたの親御さんと話をさせてください」
 条件を提示した後、私はしばらく、少女が口を開きかけたまま動かない様子を見下ろしていた。
 やがてその唇が震え始め、それから私を押しのけるような声が飛んできた。
「そ、そんなことでいいの!?」
 期間限定の雇用であることは書いてあるが、人様の大事な娘を、いわば世話係として預かるという意味と責任は重い。藍が用意したものが子供なりの真剣な思いであるなら、私は大人としてそれに向き合うべきだろう。

   5

 保護者への連絡を求められた藍は当初ウェンズに丸投げを試みた。だが彼の端末は内線専用だからと断られたため、仕方なく彼女の私物だという携帯端末を取り出し、実家へ電話をかけてくれた。
 そして私はようやく、電話回線越しに、藍の父親と言葉を交わした。
『君は信用できると判断した。そういうことだよ』
 短い通話時間でこれまでの経緯や藍のことをいくらか話しただけだったが、その人が考えなしに娘を放置しているわけでないことはすぐに分かった。よく話を聞き、調べ、先々まで見ていることも。
 そして何気なく発せられたある固有名詞を聞いて、理解した。状況を把握していなかったのは私の方だと。
「納得がいきました。よろしくお願いします」
『こちらこそ。娘を頼む』
 確認が済むとすぐ通話が切れた。藍の父親は忙しい人物らしい。
 携帯端末を藍に返そうとしたら、急に「忘れてた」と追加の要望を持ち出された。私は口頭で伝えられた内容を雇用契約書の余白に書き足し、藍の確認を得てから、末尾に自分のサインを加えた。
 藍は完成した契約書を確かめてから、急に顔を上げた。結った髪の房が不規則に飛び跳ねて私の顔を直撃した。
「わたしを裏切らないって、今ここで誓って」
 髪の先端に目を刺された私が顔を覆っている間に、藍は要求をさらに追加してきた。反射的に小さくうなずいたら、今度は額が衝突する程詰め寄られた。青い宝石に似た瞳が、黒い隕石のような瞳が、私の戸惑いを映して陰る。
「曖昧はダメ。声に出して」
「……は、はい」
「よし」
 少女の顔が離れていき、私は安堵の息を吐いた。彼女がこのやりとりを録音していたことは後に知った。

 こうして私の立場は「客人」から藍の「関係者」に変わった。
 とはいえ具体的に何をすれば良いのかは分からない。ひとまず藍に尋ねるところから始めようとした、まさにそのとき。
 会議室の天井に備えられたスピーカーから、背筋を凍らせる不協和音が大音量で放たれた。
「警報!? 敵襲!?」
 ウェンズが顔を引きつらせた。
 その直後に警報音が途切れ、彼が口走った一言を裏付けるように、合成音声のアナウンスが流れた。研究施設の敷地内に侵入者が現れたらしい。避難用シェルターへの移動を繰り返し呼びかけている。
「あら珍しい。良かったわね、ターゲットが向こうから来てくれるなんて」
 藍が率直な感想を言ったかと思うと、契約書をテーブルの上に置き、すぐに部屋を飛び出していった。
 私には声をかける暇も与えられなかった。せめて彼女がどちらへ行ったかだけでも把握しようと扉の先までは出てみたが、そこで背後からウェンズに呼び止められた。
「下手に動かない方がいい。あの子はともかく、おっさんは完全に素人だろ」
 もっともな指摘だ。しかし、誰よりも危険から遠ざけるべき少女が率先して出ていったなら、大人がそれを黙って見過ごすわけにはいかない。
「藍を一人にさせておくわけにもいかないでしょう」
「まあ確かにあの子をほっとくのも危険といえば危険か。でも大丈夫、どこ行くかなんてもう決まってるし」
 警報音と避難指示が繰り返される中、ウェンズが廊下に出てきて、書類を中に残したまま会議室を施錠した。そして情報端末でどこかに内線連絡をかけながら早足で歩き始めた。通信に応じた誰かに向けて怒鳴っているのは、彼が焦っているからなのか。アナウンスに逆らっていることを相手にとがめられているのかもしれない。
 私も彼に続いて歩き始めたが、少しずつ速くなる早足についていくのがやっとだった。必死に人を追いかけるなどいつ以来か。しかも相手が私より若いのだから、明らかにこちらが不利だ。目を離したら見失うと分かっているのに、角を一つ通り過ぎるごとに足が重くなっていく。
 一段下の階層へ降りてからは私と彼の距離がさらに開いた。ウェンズはしゃべりながら突き進んでいる。建物の玄関が見えてきた頃には、私は一言も話していないのに、すっかり息が苦しくなっていた。

   6

 平坦に舗装されていたはずの敷地が、塀の外の荒野とほとんど変わらないほど、荒れていた。
 ふらつく足でようやく現場へ着いた私が見たものは、まず立ち止まったウェンズの背中。その奥で敷石の残骸に囲まれる藍の姿。そして正門を破壊して入ってくる、あの三つ首の――しかし頭部が一つ足りない――クリーチャーだった。
「なあおっさん、あれってまさか」
「先日私達が遭遇した個体です。もしかしたら、ここへ持ち込んだものを取り返しに来たのかもしれません」
「でも『途中でまいたから大丈夫』って言ってなかった? あーそれ言ったのって藍だったっけ」
 眉をひそめるウェンズと私の隣を、防護服のようなものを着込んだ職員が何人も通り過ぎていった。ヘルメットの内側は声が聞こえにくいのか、指示や応答の声はどれも激しい怒りのように聞こえた。
 彼らはさぞ困惑しただろう。空中や高所を好むとされるクリーチャーを警戒していたなら、監視や迎撃をいずれも空に向けて準備してきたはずで、しかも『魔除けの風車』という巨大な威嚇装置まで備えていた。だが今日現れたのは翼を持たない個体だった。トラックの運転席の目線で見る世界に、同族の血を浴びた風車は映らないかもしれない。
 一方、異例の事態に全く怯んでいない人間が、この場所に一人だけいる。
「どうするつもりですか!?」
 私はクリーチャーの正面に躍り出た少女に向けて呼びかけた。大きな声を出したつもりだったが、反応はなかった。
 その前では三つ首を支える巨体が後肢だけで立ち上がり、高く持ち上げた前肢を地面に叩きつけていた。砕け散った舗装用タイルの破片が降り注ぐ。私の目の前にも一つ落ちた。彼女を止めようと駆けつけていたら直撃しただろう。
「おっさん、この前あのイキモノと戦ったときも、あんな感じだった?」
 ウェンズが通信を続けながら問いかけてきた。私は答えようとしたが、舞い上がった砂埃に口と目を遮られた。
 砂煙をまとった風がさらに大粒の石を空へ巻き上げ、礫と風圧が怪物の首を大きくのけぞらせる。あの恐ろしい熱線を撃ちそびれたのか。何かの破裂、あるいは咆哮にも似た衝撃音が、低く激しい振動として私達の足下にも届いた。
 戦闘が始まっていた。人類の理解が及ばない異質な生物と、いつからか風を従えるようになった少女の、直接対決が。

 しばらく私は藍の作戦も目的も掴めず、強風と揺れに耐えながら、ことの成り行きを見守っていた。
 あの個体は飛ぶすべを持たない代わりに高く跳ねることができるらしい。崖下に落ちても多少の段差があれば登ることができたのかもしれない。私達が逃げ切れたのは単に時間稼ぎに成功したからなのだろうか。
 私がそんなことを考えている間に、ウェンズは情報端末を使って誰かと話し、それから藍に何か呼びかけた。
「――の準備ができた。そいつで試していいか?」
「やるなら早く持ってきて!」
 すると職員たちが一度撤退し、どこからか車輪付きのコンテナのようなものを次々と運んできた。大人の肩ほどの高さがある。箱の縁や角の部分には、何かを収納する箱だとするなら過剰とも思える補強が行われていた。
「あれは」
「試作品の新型捕獲装置」
 ウェンズが情報端末を耳に当てたまま片膝をつき、小声で私に説明する。
「捕獲?」
「あのイキモノで翼がないやつは珍しいだろ。飛ぶ奴と飛べない奴がどう違うのか、共通点が見つければあいつらの定義をはっきりさせられるかもしれない、らしい」
 装置を手押しで運んできた職員たちは即座にその場を離れ、ついでのように私とウェンズを戦闘の現場から引き離した。
「あいつらは少なくとも俺たちと一緒に進化してきた生物じゃない。でも何が同じで何が違うか、まだ完全に説明できた奴はいない。だから自分たちの手で調べたい。ここはそういう物好きの城だ」
 人の手を離れた装置は一見適当に放置されたようだった。しかし上面のランプが赤く点灯したかと思うと、ひとりでに走り出し、クリーチャーを囲むように隊列を組んだ。自律走行なのか遠隔操縦でもしているのかは分からない。
 高まる期待は早速熱線の餌食になった。
 装置の一台が爆発し炎の塊と化す。その間に同型機が移動し隊列を変えていく。機敏に走る箱の中には一人の少女が紛れていた。いや、彼女が踊る箱を従えているのか。そんな集団が怪物を迎え撃とうとする姿はどうも現実離れした、滑稽な舞台のようでもあった。

   7

 飛べないクリーチャーの熱線が包囲網を飛び越え、近くの研究棟の外壁を破壊した。
 そこが何の部屋かなど私には知るよしもない。避難命令が出ているほどだからそこに人はいないはずだが、物的損害の内容が何であれ、関係者にとっては大きな痛手だろう。だがそれさえ後々の研究材料になるのかもしれない。
 輸送ロケットが落ちたあの日の記憶さえ、ここでは研究の原点にして熱意の原動力たりうるのだ。藍だけが未知の生物に立ち向かう戦士ではない。大人も大人なりに戦っている。
『いいか、チャンスは一度きりだ、気を抜くなよ!』
 ウェンズが握りしめる端末から誰かの声が響く。装置を動かす職員たちの通信を拾っているらしい。
 注目と緊張の中心で舞う藍が、一瞬だけ敵から視線を外し、片手を掲げた。
『撃て!』
 藍の仕草の直後に合図が発せられた。
 装置から撃ち出された数十本の太いワイヤーが宙を舞い、クリーチャーの強靱な肉体に巻きついた。胴体や足だけではなく、何本かは残っている頭部に絡まり、熱線の発射口を封じ込めていた。
 装置が一斉に同じ方向へ走り出し、抵抗する獲物を引きずっていく。立ち並ぶ研究棟のどれかへ運び入れるのだろう。
 防護服の職員たちも動き出す中、私は藍を見失ったことに気づき、未だ暴れる首と尻尾の向こう側を目で探した。彼女は見つからなかったが、破壊された門と瓦礫を乗り越える大きな車両が視界に入った。
 弓なりに飛んできた砲弾を視認したのは一瞬のこと。
 それがクリーチャーの頭上で炸裂したと知った時には、炎の色と熱風が私達の視界を奪っていた。

「誰か動ける職員はいるか! 救護を、医者を呼んでくれ!」
「こっちにも怪我人がいる、早く!」
 熱と振動が完全に通り過ぎた後、まず職員たちの声が聞こえてきた。
 その場に倒れていた私が助け起こされ、顔を上げた時、目の前にはまだ大量の黒煙があった。そこへ一台の装甲車が現れ、煙の発生源を私達から隠すように停車した。
「うっわ、『飛べない鳥』のお出ましですか」
 その装甲車の側面に空軍のエンブレムを見つけたウェンズが深く息を吐いた。
「おっさんも見たよな、ここら辺にはうちしかなかっただろ、建物。どう考えたって他に攻撃の的なんかない。あいつら明らかにアレ狙って来たんだ。誤爆もクソもない、こりゃ揉めるぞ」
 装甲車から人が降りてくると、すぐさまその行く手に防護服姿の職員が詰め寄った。侵入者を生け捕りにする計画を潰された上、一緒に燃やされかけた人々は皆、自分たちの冒した危険を棚に上げて憤っていた。軍が以前からその個体に目をつけ、民間人の思惑と関係なく追跡していたと後に判明してからも、怨嗟の声はやまなかったらしい。
「所長はすぐ偉い人にケンカ売るから。前に藍がやらかした時も……そうだ、藍は?」
 私は体を打ちつけた痛みも忘れて立ち上がり、走り出していた。
 押し問答の横を回り込み、装甲車の後ろを通り過ぎた先に、煤だらけになって立ち尽くす藍を見つけた。
「怪我はありませんか」
「別に」
 私が差し出した手は彼女の長い髪に弾かれた。
 討ち取られた怪物の巨大な亡骸を目にしても藍は動じない。私と出会う前から何度もそういったものを見てきたのだろう。つい目をそらした私に、彼女は言った。
「あのクリーチャーがどこから来たか知ってる?」
 それは人類が解いていない大きな謎の一つではなかったか。もちろん私が知るはずもない。
 沈黙を回答だと認識したのか、藍はこう続けた。
「いくら倒してもどんどん出てくるし、この子みたいに昔はいなかった種類が、今こうやって現れてるでしょ。だったら今でもどこかで生まれてるはず。わたしはそれも探してるの」
 冷たい空気を頬に感じた。
 風が吹いてきた方向になんとなく目をやると、薄れゆく煙の向こうに、静かに回る風車が見えた。


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