退屈な日だったと彼女は語った

「a boring day」収録作品


 不穏な夢を見ていた。
 目を覚ましたとき、私はワンボックスカーの運転席に座り、ハンドルを抱くように顔と胸を預けていた。
 窓の外はぼんやりとした白さに包まれている。朝が来たということだけはすぐに理解した。
 私は起き上がり、視線が届く範囲のすべてを見渡した。右隣の助手席には誰もいない。手探りでワイパーを起動し、フロントガラスの曇りを取り除くと、外には舗装された平坦な土地が広がっていた。
 広い駐車場の片隅に一人きり。
 自分は何故ここにいるのか。どこから来て、何を思ってこんな寂しい場所に駐車したのか。そしてどこへ行こうとしていたのか。
 頭が考えている間に、耳が小さな物音を拾った。ゴソゴソと何かを探す音、そして断続的な衣擦れ。運転席の真後ろに誰かがいる。
 私は何気なく振り返った。
 その直後、硬いものが私の額の中心に打ちつけられた。
「見ないで!」
 その瞬間に思い出した。
 私は独りではなかった。それに行き先も目的も初めからはっきりしていた。自分が今乗っているこの旧式の車を、そして車の実質的な所有者を、ある街へと運んでいくためここにいる。
 記憶が明確に結びついた。
 私は殴られたのだ。私に車を買わせた雇い主に。ちょうど後部座席で服を着替えている少女の、小さな拳で。


 雇い主である少女――藍(ラン)は着替えた後、長い黒髪を左右に分けてこめかみの上で結い上げ、車を降りた。
 彼女が周辺を散策する間に、私は朝食の用意を始めた。
 必要な物はすべて後部座席に積まれている。その中から食料の状態と残りを確かめ、今朝使う分だけを取り出した。二人分を用意することにはまだ慣れない。
 車中泊の後の朝食はシンプルだ。買い置きのパンと、小分けの袋になったママレード。野菜の破片を煮込んで適当に味付けしたスープは少し味が濃かったかもしれない。
「見た目通りの味ね」
 藍から得られた感想はそれだけだった。
 普段の彼女はとにかくわがままが多い。旅の行き先や移動ルートの選択については決して口を挟ませないし、ときには私にも無茶な行動を平然と要求してくる。しかし食事の味付けについてはあまり具体的な文句を言わないし、何を好むのかも教えてくれなかった。
 そもそも私には思春期の少女の嗜好が分からないので、手持ちの中から候補を考えて試すこともできない。年齢差だけは親子を名乗っても違和感がない程度なのに、あいにく私には子供を持つような縁がなかった。
 とはいえもう何日も共にいると、さすがに分かってきたこともある。例えば私が支度に手間取ったり、指示の内容を掴み損ねたりすると、彼女はすぐに難しい顔をする。
「急いでよ。わたしには無駄にしていい時間なんかないんだから」
 何を渡せば機嫌を直すだろうか。今夜には辿り着けるはずの街で、手がかりだけでも得たいものだ。


 今日も私は藍の指示に従って車を走らせる。
 山の中を切り開いた道路は人里から遠く、いくら進んでも景色が変わらない。
「さっきから誰も通らないのね」
 最後に立ち寄った街を出発してから三日目。予定ではこの辺りは既に通過しているはずだった。しかし初日は思わぬ騒ぎに巻き込まれ、次の日は突然の雷雨に見舞われ、思うように先へ進めなかった。今日こそはと藍は思っているはずだ。アクシデントは仕方ないが、私の落ち度による足止めだけは契約に響くのでなるべく避けたい。
 森の奥深くに入ると、密集した木々によって見通しが悪くなってきた。周囲の地形が見えにくいと危険は増える。昨日の雨による悪影響が想定として脳裏をかすめ、私はハンドルを握る両手に力を入れ直した。
 想定のうちの幾つかは実際に出くわした。カーブを過ぎると突然目の前に急斜面が現れる。対向車線を倒木が塞いでいる。土砂崩れがあった場所を雨の後に吹き飛ばしたような痕跡がある。
 さらに進むと、警戒の片隅に違和感が混ざり始めた。
 もともと山間部の道路には危険の種が多い。それなのに注意喚起の標識が見当たらないのはどうもおかしい。
「道は合ってるから。このまま進んで」
 ひと昔前なら車載コンピュータが危険を知らせ、道案内もしてくれただろう。しかし今やこの地球上でGPSを利用した装置はほぼ絶滅したといっていい。
 対向車への備えは運転手である私が担うしかない。道路標識もないのでは、預けた地図を読み上げる助手席の声だけが命綱だ。


 実を言うと、私は山を越えると聞かされたときから、あまり気が進まなかった。
 藍が生まれるより少し前、この地球上に突如、正体不明のクリーチャーたちが現れた。どこから来たかも分からない集団の侵略を受けた結果、環境や生態系、とりわけ人類を取り巻く状況が大きく変化してしまった。
 もちろん人々は自分たちの暮らしを守るため果敢に戦った。だが敵の多くは大きな翼を持ち、機敏な動きで四方を自在に飛び回って人間を翻弄した。さらに侵略者たちは強靭な爪や原理不明の熱線といった武器、凶悪なまでの攻撃性、そして縄張りとした空域への執着心を備えていた。そのため航空機を始めとした人工の飛行物体はことごとく襲撃され、玩具のように叩き落とされていった。
 結局、人類は地上への被害を抑えるため、あらゆる空路を放棄した。それは空を超えて宇宙に進出する手段を諦めることでもあった。人工衛星の打ち上げもできなくなったので、観測・通信・発電など様々なシステムが相次いで稼働停止に追い込まれた。民間用のGPSはその代表例だ。
 では地上にいれば安全かというと、そうとも言い切れない側面がある。都市部に残る高層ビルの大半は今や巨大な巣箱と化しているし、他の地域でも標高の高い山間部などには、必ずと言っていいほど複数の個体が巣を構えていると言われる。
 つまり、陸路を走る車でも山の頂上を通るなら、その道中で怪物と鉢合わせる危険があるのだ。
 それでも藍は進むと言って聞かなかった。


 上り坂の途中で藍が開けた場所を見つけた。
 細い川の脇に、砂利と雑草に覆われた平坦な土地があった。自然による造形ではなく明らかに人の手が加わった形状をしている。以前は人の出入りが多かったのだろう。
「ちょうどいいわ。そこで停めて」
 時刻は昼食に良い頃合いだった。私は言われるままに道を外れて河原の隅に駐車し、食事の支度をしようと再び車の後部に回った。
 ところが、ドアを開けようとした手は小さな手に押しのけられた。そんなことをする者は他にない。藍だった。
「わたしが作る」
 だから引っ込めと青い右目が訴えていた。
「これからちょっと空が荒れるから。車を点検しておいてちょうだい」
 だからすぐ行けと黒い左目が威嚇していた。
 私は無言でうなずき、タイヤの状態を見に行った。
 見上げる空に怪しい兆候はない。山の向こうの様子までは確認できないが、風に乗って流れてくる雲はどれも真っ白で、目に見える範囲の外まで青空が続いていることを伺わせる。
 しかし点検の理由は「念のため」ではない。藍がわざわざ空模様に言及するとき、そこには明確な意味があるのだ。
 私が悪天候と悪路への備えを終えた頃、藍は既に食事を始めていた。折り畳み式の小さなテーブルの上に、枕を思わせる形状のサンドイッチが置かれている。目についた食材を適当に集めて強引に詰め込んだらしい。
 後部座席の積み荷はさっき固定し直した際に確かめたはずだが、後で改めて在庫を数える必要がありそうだ。
 藍は私の懸念を察しはしないだろう。満足と誇らしさが五分ずつといった顔で、でこぼこのサンドイッチにかじりついていた。


 休憩後の道のりは順調で、藍がそれ以上寄り道を要求することはなかった。
 峠を越えて幾分か進むと、急な下り坂の先に平原が見えてきた。好天に照らされた地形は出発前に地図上で見た通りの姿で、集落のようなものも見える。
 あれが今夜の終着点として目指している場所なのか。私は藍に確認しようと口を開きかけた。
そのとき、突然、車が大きく揺れた。
 何かを轢いたらしいことに気づいた私は迷わずブレーキを踏んだ。耳障りな音と振動を伴って車が急停止する。全身を慣性力に揺さぶられた直後、何かが飛んできて私の顔に衝突し、膝の間に落ちていった。今朝受けた拳よりずっと強い痛みが眉間に残った。
 鈍器で殴られたような衝撃に多少のふらつきを覚えながらも、頭の中には現状確認のことしかない。私は素早く前後左右を目視で、そしてミラー越しに確認した。
 左後方の木が不自然なほど大きく揺れていた。
「やっぱり出てきた。逃げ……っ」
 藍が何か言いかけた。しかし彼女はすぐに吹き出してしまい、発言は打ち切られてしまった。
 このとき運転席の足元に工具が落ちていたことは後で知った。恐らく藍が見た私の額には六角形の陥没が刻まれていたのだろう。
「い、いいから、走って。早く!」
 急かされるままアクセルを踏んだ。
 低く唸る声が断続的に聞こえる。枝が豪快に折れる音が立て続けに降ってくる。地響きのような足音を響かせて、何かが私達を追ってくる。


 「何か」の正体を私が確信したのは、サイドミラーに白い影が映るのを目にした瞬間だった。視線を正面に戻してから再びミラーを見るまでの間に、影ははっきりした形となり、少しずつ車の真後ろへと接近していた。
 生き物がいる。太い脚で走っている。その体躯は少なくともこの車よりは大きいようだ。しかもそれは体格に見合う巨大な翼を左右に広げ、道の両脇の枝葉を片端から跳ね飛ばしていた。
 地球上のどんな図鑑を紐解いてもこの姿は載っていないだろう。謎のクリーチャーがやはりこの山にも居着いていたのだ。
「今、絶対尻尾踏んだ! もう最悪!」
 藍が叫びながら助手席側の窓を開けたらしい。冷たい空気が私の右半身に押し寄せてきた。車内の室温が急激に下がっていく。
 しかしそんなことに構う暇はない。空が曇ってきたらしく視界がわずかに暗くなった。後方はともかく車の前方には道幅ギリギリまで木の枝が伸びているし、雑草に混じって低木の茂みも見える。ここでハンドル操作を誤れば、たちまち道を外れて何かに衝突するだろう。
「この先の分かれ道まで走って!」
 辛うじて聞き取れた言葉に首肯するのがやっとだった。
 左の前輪が木の根に乗り上げて宙に浮き、水たまりに飛び込んだ。泥水の飛沫の向こうに白い壁が見えた。
 雲間から顔を見せたわずかな日差しが辺りを照らした。
 並走する怪物の顔が水を被っていた。硬そうな皮に覆われた巨体が、突風と七色の水滴を浴びながら、全く怯むことなく運転席の真横に迫ってくる。


 ようやく肉眼で見た今回のクリーチャーは、長い首の先に菱型の顔を持っていた。前傾姿勢で走る胴体はミラー越しに見た印象に比べれば小さい。後ろ足から頭部までの高さは中型のトラックに匹敵するように見えるが、これまでに私が見た中で言えばそんなに大きな個体ではなかった。
 それでも体当たりの威力は相当だろう。あるいは尖った口にガラスを叩き割られるかもしれない。私は被害を覚悟した。
 ところがそいつは揺さぶるような足音と共に、車を追い抜いて前に出た。フロントガラスの両端で、前足と同化した翼によって薙ぎ払われた枝が乱れ飛んでいた。この辺りで標識を見かけなかった理由がなんとなく解ったような気がした。
「通せんぼされてどうするの! よけて!」
 翼の陰にちらちらと見える下り斜面は間違いなく悪路の連続だが、ここで止まるわけにはいかない。リスクを承知で加速した。
 しかし脅威を抜き去るより早く、次の脅威が運転手の死角に潜り込んでいた。下からの衝撃が車体を浮かせ、タイヤを空転させた。
 怪物が翼を使って車体をすくい上げたことを知ったときには、厳つい顔が運転席の真正面に来ていた。
 私たちは敵の背中の上にいた。
 八方塞がり。
 息を呑んだ瞬間、突風が無数の木の葉を連れて私の目の前を横切った。
「走って!」
 怪物の視界が奪われた隙に藍が指示をねじ込んできた。
 私はとっさに離していたアクセルペダルを再び踏み込んだ。目の前には水平に広げられた翼と、空がある。
 風をまとった車体が宙を舞った。


 着地の衝撃で危うく舌を噛みかけた。しかし私には肝を冷やす暇さえ与えられない。藍が先ほど言っていた分かれ道がようやく前方に見えてきたのだ。
「そこ、右!」
 辛うじて拾った声を頼りにハンドルを切った。
 直後、ひときわ強い風が枝葉を巻き上げ、フロントガラスを何度か殴ってから遠ざかっていった。ついでに助手席側の窓から入り込んだ小石が私の頬を打った。
 右折した車をしばらく進めてから左側へ目をやると、土煙の柱が視界の端に見えた。木々の合間に白い翼を見たような気もする。しかしそれを確かめることはかなわなかった。
 山を削り取るように吹き抜けた巨大な竜巻によって、白いクリーチャーは分岐点の左側へと押し流されていった。そして私達の車は辛うじて巻き添えを免れた。
 私は知っている。これは恐ろしい偶然ではない。隣にいる少女が意図的に引き起こしたものだ。
 藍には周囲の大気に干渉する能力があるという。空気が動けば風が生まれ、気圧が変われば天候が崩れる。それらは自然現象であり、ひとりの人間が操るなど到底考えられないのだが、彼女は実際に私の眼前でそれをやってのけるのだ。そんな彼女を人々は畏怖の念を込めて「風の魔女」と呼んでいた。
 私は改めて思う。
 今後も彼女と共にいる限り、こんな緊張がつきまとうのか。これだけ寿命を削られる心地が続くなら、仮に私の命が九つあっても足りないかもしれない。


 山を降りて平坦な道に到達したことを確かめると、私はようやく怪物の襲撃を振り切ったことを信じられるようになった。
 薄闇に包まれた森を抜けると、曲がりくねった道の先に夕陽と街明かりが見えた。山道の途中から目視した道筋も再び確認できた。このまま道なりに進めば、余程のことがない限り、あの街に辿り着けるはずだ。
 私はハンドルを握り直しながら、明日の予定、そして目的地のことを考えた。
 運転手として本音を言うなら、戦い疲れた車をそろそろ休ませたい。それに助手席のシートを寝床にし続けるのは私の健康、そして藍の成長に良くない。だが藍自身は先を急ぎたがっている。どう進言したら彼女は聞き入れてくれるだろうか。
 考えた末に方針を変えた。
 何よりまず今夜の宿を見つけよう。明日のことはそれからでいい。もしかしたら藍はシャワーを浴びたいなどと言い出すかもしれないが、私は安心して横たわれる場所さえ確保できればそれで十分だ。
 このときの私はまだ、藍の余計な発言のせいで宿探しが真夜中まで長引くことを知らない。


(了)