ストレイトロード

「the first junction」収録作品


 見渡す限り、大地だけが広がっている。
 見渡す限り、荒野だけが広がっている。

 脇目を振ればすぐに地平線を見つけられる。反対側を向けば、かろうじて斜め前方に山々の稜線を捉えることができる。
 そして正面には、ただまっすぐ、ひたすら前にだけ伸びている一本の道路がある。
 かつては舗装されていたが今は荒れ果てている道は、はるか後方、振り返ってももう見えないかなたからずっと続いているものだ。


 そんな道の上で、私は今、車を走らせている。
 旧式の白いワンボックスカーはこの日のために用意してきたものだ。見つけた時点で走行距離は既に長く、買い上げてからもかなりの道のりを進んできたはずだが、エンジンもバッテリーもよく頑張っている。前の持ち主の手入れがしっかりしていたのだろう。
「暑い」
 ハンドルを握る私の右隣で、少女が口を開いた。
「日差しもないのにこんなに暑いなんて。本当にちゃんと冷房効いてるの?」
 きっと口をとがらせながら言っているのだろう。
 車内の気温について私自身はそれほど不快には感じていない。しかし隣に座る彼女は仰々しく飾り立てた蒼いドレスを着込んでいるから、軽装の私と体感温度が違うとしても致し方ないことだった。
 おそらく本人もそれを承知している。それでも口にするのだ。
「なんとかならないの」
 彼女がこちらに顔を向けたらしい。声の届き方がわずかに変わった。
 私は正面から目を離さない。
 今のところ、ガラス越しに見渡せる範囲には動くものなど何一つ見あたらない。しかし気は抜けない。いつ、どこから、何が飛び出してくるか分からないのがこの世界だ。
「ねえ。その頭をどうにかする時間、本当になかったの?」
 文句の矛先が変わった。
 私は車体左側のサイドミラーに視線を向けた。映る景色も、状況も、天気さえも、しばらく前に見たときから全く変わっていない。
 乗車前にそのミラーで見たきり、私は自分の顔を見ていない。確か髪はぼさぼさの荒れ放題、まさに寝て起きたままの形を保っていた。時間が経っているからそろそろ少しは勢いをなくしているだろう。ついでに下あごのひげは数日の放置で中途半端な長さに育っている。疲労と年輪による衰えでやせてきた顔の輪郭を、それらの無精がさらに貧弱に見せていた。
 この車の整備に夜通しかけていなければ。それか出発前の仮眠からもう少し早く目覚めていれば、私も多少は身だしなみを整えられたかもしれない。今さらだが。
「ちょっとはこっち向いて答えなさいよ。そんなだからあなたは面白くないの」
 一語一語が突き刺すように強調される。
 私は眉一つ動かさず、また正面を見た。
 まだ日は高い位置にある頃だ。晴れていなくても雲の色は明るく、赤土の鮮やかな色がよく見える。目の前の道路はというと、どこまで行っても色あせた灰色ばかりで、その向こうから何かが走ってくる様子はない。
「地味だし、無口だし、冷たいし、あれのことなんてなーんにも分かってないし」
 投げつけるように単語が飛んでくる中で、私は少女の望み通り、右側の助手席へと視線を振った。
 彼女はもう私の方を見ていなかった。うなじのあたりのわずかな動きから、今し方顔を背けたばかりだと読み取る。いつも彼女は長い黒髪を左右のこめかみの上で二つ結いにしているのだが、その肩の上に垂らした左の房が、ちょうど横顔を隠してしまっていた。
「だからあなたは面白くないのよ」
 彼女は繰り返した。
 私はまた視線を元に戻した。


 助手席に座る少女は名前を藍(ラン)という。聞いた話では今年で13歳。自分の3分の1にも満たない年の子供に、私は1週間ほど前から雇われている。
 彼女の指示で車をこの直線の道路に乗せたのは朝方のことで、それ以来ずっと、二人きりの車内には彼女の不平ばかりが響いていた。時には黙ることもあったが、5キロも進まないうちに新たな標的を見つけては噛みつき、あるいは先にも言った愚痴を繰り返す。私は既に何度も自分の悪口を至近距離で聞かされてきた。
「わたしは退屈なのよ」
 これまた幾度となく聞かされたフレーズは、どうやら偽らざる本音であるらしい。
 無理もない。彼女は本来、さえない風貌の中年男が運転する中古車に長時間揺られている、などという場面とは無縁の身分なのだ。気に入らないことも多かろう。
 しかし、そんな彼女が二つの点については決して文句を言わないことに、私は乗車地点が地平線の向こうへ消えた頃に気づいた。
 一つは、この限りなく真っ直ぐな道の終着点が全く見えないこと。
 一つは、そもそもこんな場所を延々と走り続けることになった経緯。
 どちらも彼女自身が決定したことだ。不安も不満も口にしないのだから、それなりの自信そして確信があるのだろう。
 残念ながら私は彼女の目論見について何一つ知らされていない。ただ命じられるまま車を手配し、運転席へ座り、今はハイウェイの法定速度のぎりぎり上を維持すべくアクセルペダルに足をかけている。


「ゼファールって、本名じゃないんでしょ。自分で考えたの?」
 しばらく口を閉ざしていた藍が不意に、また違う角度から私にけちをつけてきた。
「どう考えたって親が子供につける名前じゃないでしょ。崩壊(Zerfall)だなんて。わたしが言うのも何だけど、今まで出会ってきた人の中で、間違いなく最悪のネーミングセンスね」
 言い切られてしまった。
 反論の余地はない。いつか私が親になることがあっても、そんな不穏な単語を名前として採用はしないだろう。しかしどんな低評価を受けたとしても、それが今の私を指すものとして世間から認知されている名であることは事実だ。
「自分で自分をそんな風に呼んでて、悲しくならない?」
 答えにくい質問を彼女は遠慮なく重ねてくる。
 私は視界を固定したまま、最初の質問への答えを返答に選んだ。
「ご指摘の通り、両親からもらった名前は別にあります」
「やっぱり」
 聞こえてくる相槌に感情がない。
「ちょうどあなたが生まれた頃、どうしてもその名を使うわけにいかない事情が出来たので、使わなくなりました。今の呼び名を考えたのは友人です。当時の私はそこに込められた意味合いも分かっていませんでしたが、今では納得しています」
「ふーん」
 反応はやはりそっけないものだった。
 もっとドラマチックな話でも期待していたのかもしれない。あいにく私には期待に見合うようなエピソードの持ち合わせがないので、代わりに別の言葉を口にした。
「藍」
「何よ」
「まだ、このままの速度でよろしいのですね」
「わたしが言うまではって言ったじゃない。もう忘れたの?」
 少しばかり怒ったような口調だったが、車を発進させた頃よりはトゲが減っているように感じられた。街では強い緊張感の中にあったから、少しは気が楽になったのだろう、と私は勝手に推察して安堵する。
 もう一度見やった彼女は、今度は顔を正面に向け、左の瞳だけが私の方へ向けられていた。横顔の奥で頬杖をついているらしい。私の半分ほどしかない太さの腕、真っ白い肌が少しだけ見えた。
 星明かりを宿した夜空のような色の瞳を見たところで、目をそらされた。
「じろじろ見ないで」
 私はまた前を向く他になかった。
 遠景が何一つ変わらないので、真正面だけ見ていると全く進んでいないようにも錯覚する。少しだけ手前を見ると、道路は確かに車の下へと吸い込まれていた。
 そして車の後方へと関心を向けた。
 振り向く代わりに車内のルームミラーを見上げる。映している背景は先ほどサイドミラー越しに見たものと大して変わらない。しかしそのときはわずかに見える程度だった、もっと手前に存在するものが、今見ているミラーの中ではもっと手前に、そして中心にあった。
 たった今この車が通過していった道路。
 その道を疾走する一頭の、名前も知らない大型生物。
 丸太ほどに太い4本の足は交互に力強く地面を蹴り、一人乗りの軽自動車に匹敵する大きさの胴体をリズミカルに揺らしながら前進している。一歩進むごとに鋭い爪が振り下ろされ、その皮膚と同じ色をしたアスファルトに突き刺さっては、衝撃とひび割れを道路に刻んでいた。
 両前足の上、胴体の先端からは3本の首が生えている。どれも首から下の高さより長く、真上に伸ばせば体高は4メートルを超えるだろうか。その首のうち2本は前に低く垂れて頭部を前に向けさせているが、中央の1本は頭があるはずの位置に切断面だけがあり、体の揺れにあわせてぐらぐら動いている。そこから濁った紫色の体液がこぼれては胸元を濡らしていた。
「少しずつ距離が縮まっているように見えませんか」
「それも含めて計画通りよ」
 気のせいではなかったらしい。藍は平然と言ったが、その自信の根拠が私には見当もつかない。
 どこまで目をこらしても、対向車線を走ってくる車の姿は見つけられなかった。前方の安全を確認した私は1秒だけ振り向き、ミラーに映らない運転席の真後ろを自分の目で確かめて、すぐまた前を向いた。
 ワンボックスカーの後部座席がすべて折り畳まれ、平らな荷台になったスペースにビニールシートが敷かれている。その上には、素人が想像に任せて作った彫刻を思わせる、不格好なクリーチャーの頭部がロープで固定されている。
 そしてその積み荷と全く同じ造形の顔が2つ、車のバックドアのすぐ後ろで交互に大口を開け、車体に噛みつこうとしていた。タイミングさえ合えば鋭い牙の先端が塗装をかすめそうな距離だ。
「こうやってわたしの後ろについてきてくれることが大事なの」
 藍はミラーを使わず、全身を使って大きく振り向いたらしい。結われた髪の房に右の耳をひっぱたかれた。
「下手に引き離したら、あきらめてどこかへ行っちゃうかもしれないでしょ」
 彼女はクリーチャーの首を眺めているようだ。
 その間に私はメーター類を一通り確認した。走行速度は指示通り。燃料残量は半分を切っている。これで目的地まで足りるのか私には分からない。
 そしてフロントガラスの向こう、前に左右に目を配った。
 雲行きに変化はない。
 路面にも変化はない。
 気づいたことといえば、はるか遠くで道路が一度途切れているように見えることぐらいだった。この道はなだらかな丘の上を越えていくらしい。
「確かにその通りです。ここで逃げられてしまえば、あれはまた街に戻っていこうとするかもしれません」
「分かってるじゃない」
 隣から衣擦れの音が聞こえてきた。彼女は後ろを見るのをやめたのだろうか。
「ですが……私は、もう少し距離を置いた方が、より安全ではないかと思います。見たところ相手はまだ余力を残しています。このままだと私たちを捕らえようと飛びかかってくるかもしれません」
 問題のクリーチャーが映るミラーを視界の端に入れる。
 脅威は爪と牙だけではない。その口は高温の熱線を発射することもできる。この道路の入口を封鎖していた城壁のようなバリケードを、一発で瓦礫の山に変えてみせた代物だ。どんな仕組みが体に内蔵されているのかは知らないが、その威力は私自身もこの目で見たから間違いない。
 そいつは変わらず車の真後ろにぴたりとつけている。バックドアガラスの両端が曇ってきたように見えるのは、きっと激しい鼻息か何かを浴びたからだろう。
「街の皆さんを守るのも大事ですが、私はこんなところであなたを危険にさらしたくはありません。もっと先へ行くつもりなのでしょう?」
 出かかった言葉を息と一緒に飲み込んだような声を聞いた。
 それからしばらくの間、車内にはエンジンの音と、追跡者の足音だけが響いていた。


 この不気味な怪物がいつ、世界のどこから現れたのかは判っていない。しかしその存在が広く知れ渡った日のことなら、私ははっきりと記憶している。
 今から17年前。
 宇宙ステーションへ物資を運ぶ輸送船を積んだロケットが、打ち上げ直後にクリーチャーの襲撃を受けて墜落した。一部始終を収めた映像、画像、音声、そして文章はすぐにあらゆるメディアを通じて全世界に拡散された。最初こそ情報の信憑性を疑う人間も多かったが、程なく彼らのほとんどが実際にその脅威に直面し、多くは敗れ去った。
 それまで秘密裏に動いていたりいなかったりした各国政府は報道を機に表立って動き出した。しかし時既に遅く、この未だ正体不明のクリーチャーたちは抵抗をたやすく蹴散らし、わずか1年足らずでその生息域を地球全土に広げた。かつて人類が自然を駆逐してきたように、それらは人類の英知の結晶を手当たり次第に破壊し、自分たちの住みよい環境を作っていった。
 一方で人類は大きく数を減らし、同時に文明の恩恵の多くを奪われた。とりわけ通信と輸送の大動脈が次々と破壊された影響は甚大だった。ヒト、モノ、エネルギー、そして情報を高速で動かしていたネットワークは力を失い、世界は広く遠いものになった。かつては荒野の真ん中でも携帯電話が使えたものだが、今は人里を離れるとすぐ通信圏外になる。危険な場所ほど助けを呼べない。
 クリーチャーは高層建築に横穴を開けて巣をかけ、我が物顔で地上を見下ろす。人間は破壊を免れた場所で息を潜めて暮らす。今やどこの都市でも普通に見られるようになった光景を、ある人はこう表現した。
「俺たちは床下のネズミなんだよ。とりあえずあいつらの住処を壊してないから目を瞑ってもらってるけど、誰かが変に近づいたらすぐに狩りを始めるのさ」
 しかし。
 地球が制圧されてから何年も経った頃。
 今度は人類の方に変化が起きた。あの墜落の後に生まれてきた子供たちの中に、不可思議な力に目覚める者が現れ始めたのだ。
 それがどこからもたらされ、また彼らがどのようにしてそれを行使しているのか。科学的見地からの研究は行われているはずだが、その対象の中の誰についても、数々の謎の一つでも解き明かされたという話は聞かない。正体不明であるが故か、彼らは一部の人間から崇められる一方、それ以外の多くからは恐れられ忌み嫌われていた。ちょうど同時期に現れ、同様に謎だらけであるクリーチャーたちのように。
 私の隣でしかめ面をしている藍も、実はその一人だ。彼女は大気に干渉できるという。要するに、気圧や気流などをある程度自在に操れるらしい。人呼んで、風の魔女。実に安易な名付けだが本人は気に入っていると言っていた。
「えらい人は難しい単語並べた名前で呼んでくるし、学者だって人は記号みたいな名前で呼びたがるけど、どっちも可愛くないから嫌いなの。さん付けはその次に嫌い」
 彼女の考えも、彼女が持つ力についても、私は何度聞いてもよく理解できなかった。
 それは私が文字通り古い時代の人間だからだろうか。


 後ろから突き飛ばされる衝撃に車体が大きく揺れた。
 私はハンドルを握り直した。
 隣からは小さなため息が聞こえてきた。
「分かったわよ。もうちょっとだけ速度上げて」
 聞いた瞬間には何のことか掴みかねたが、すぐに先ほどの会話を思い出した。どうやら私の意見がようやく通ったらしい。
 私は追ってくる相手が変わらずルームミラーの中央に映っていることを確かめてから、慎重にアクセルを踏み込んだ。
「ちょっとずつよ。もう少ししたらもっと加速してもらうから余裕残して」
 やや無茶な注文にも聞こえるが文句を言える立場でも状況でもない。無言で首を縦に振ってから、景色の流れゆくスピードを頼りに調整をかける。
 引き離したクリーチャーとの距離を鏡越しに見積もっている間に、藍が何かを言ったようだったが、聞き逃してしまった。
「聞いてる?」
 彼女の催促を受けて初めて気づいた。何かの指示だったのかもしれない。私は素直に答えることにした。
「すみません、聞いていませんでした」
「そう」
 語気に怒りはない。機嫌を損ねていないことに私は安堵した。
「もう一回だけ言うわよ。……ゼファールは宇宙に行ったことがあるって聞いたんだけど、本当?」
 言い直されたのは指示ではなく質問だった。
 私は反射的に視線を彼女がいない方へ向けていた。
「何よそのリアクション。せっかくまともな話題を考えてあげたのに」
「すみません。思いがけない質問だったもので、驚いてしまって」
 視線を正面に戻しながら私はまず謝り、少し間を置いてから、
「……本当です。ずっと昔の話ですが」
 大きくうなずいた。
 彼女は私の反応に満足したのか、少しだけ嬉しそうな声で、話を続けた。
「ねえ、宇宙から見た地球って、どんな風に見えるの?」
 その言葉だけを切り取って聞けば、ごく普通の少女だと誰もが思うだろう。思春期を迎えた年頃には珍しくもないことだが、彼女はある場面では大人にも勝る強さを垣間見せながら、別の場面ではこうやって子供らしい好奇心を口にするのだ。
 直接見ないまま、その表情を一瞬だけ想像してから、私は答える。
「宇宙といっても、私が到達したのはほんの入口に過ぎません。結局は地球のそばを離れませんでしたから」
 その先へは行きたくても行かれなかった。
「でも、これだけは言えます。……地球は美しかった」
 ロケットが撃ち落とされたあの日、宇宙ステーションの窓から見下ろしていた世界を、意識の片隅に描く。
「空の青と海の青が重なって、混ざり合っているような、なんと言いますか、それまで見たことのない色でした。もちろん陸は陸の色をしていますし、いつもどこかを雲が流れていましたが、そういうのも含めて全部を青が包んでいたように見えました」
「写真とは違う?」
「写真よりも鮮やかな色でしたよ」
 返答を聞いた彼女は「ふうん」とつぶやいてから、私の方を向いてこう聞いた。
「行けるならもう一度行きたい? 宇宙」
 言葉が浮かばなかった。
 考えたことがない、だけはまず違う。自分に問いかけていた時期は確かにあった。しかしいつしか、そのことだけは考えないようにと、ひたすら自分に言い聞かせるようになっていた。
 あの事件の後、各国は相次いで宇宙開発のプロジェクトを凍結あるいは打ち切った。軍隊や警察を始めあらゆる戦力を侵略者対策に動員した政府の懐事情もあるが、最大の理由は打ち上げ自体のリスクが爆発的に増大したことだろう。クリーチャーの多くは飛行能力を備えている。事件直後に命じられた衛星軌道上からの帰還ミッションも、これまでとは違う意味で命がけだった。
 だから、はい、と言ってはいけない。
 だけど、いいえ、と言いたくはない。
 もちろん分かっている。彼女に聞かれたそのことを、私は決して願ってはいけない。かなうことを期待してはいけない――小型飛行機さえ危険すぎて飛ばせなくなった今の世界にいる限りは、決して。
「なんでそこで黙るの」
 右腕をはたかれた。
 追憶に引きずり込まれていた私はハンドル操作を誤りかけて我に返り、立て直しながら大きく息を吸った。後頭部から背中にかけて冷たいものが降りてくる。
「あなたがどう思ってたって別にどうでもいいけど。……わたしは、宇宙に行ってみたい」
 藍は私にかまうことなく話を続けた。
「わたしは意識を空気に乗せてどこまでも飛ばせるの。今ここで窓を開ければ、地球の裏側を見てくることだってできるんだから」
 初めて聞かされる話だった。
 私は運転優先を改めて自分に命じつつ、耳では言葉を拾う。
「でもやっぱり限界はあるのよ。一度どこまで高く上れるか試してみたんだけど、空気が薄くなるとわたしの意識も薄れちゃった。地球が今もああいう写真みたいな姿をしてるのか、見てみたかったのに」
 その写真の内容を私は知らないので、彼女がどれほどの高みを目指したのかは推測できない。しかし宇宙と呼ぶ以上、それはおそらく、限られた人間だけが到達を許される世界だろう。
 かつて長距離を飛ぶ航空機は高度1万メートルまで上昇していた。陸地の最も高い地点よりもさらに上だが、それでも成層圏にさえ届かない。一般に宇宙空間と見なされている高度はおよそ100キロ以上とされている。
 まさか本気でそんな場所を目指したというのか。仮に彼女の発言すべてが本当だとしても、なお信じられない。
「でもまだわたしはあきらめてないから。絶対、この世界を変えてみせる」
 隣から聞こえてくる宣言は力強い。
 私は左に傾きかけていた進行方向を何とか正面へ修正した。対向車も新たなクリーチャーも現れないことがありがたかった。ほんの少しだけ緊張がゆるむ。
 今ここで横を向けば、こちらに向けられた真剣なまなざしを見ることができたかもしれない。普通に座っている限り見ることができない彼女の右の瞳は、あの日に見た地球とよく似た色をしている。
「だから……空を取り返したら、わたしを宇宙に連れてって」
「え?」
「なんでもない!!」
 私が聞き返すと、藍は首を思いきり左右に振った。しなやかな髪が鞭のように私の右腕を何度も打った。
 荒い呼吸が落ち着いた頃、車内はまた静かになった。


 私は雇われた身だ。
 乗っているこの車と同じように、この時のために調達された運転手だ。
 知人を通して依頼を受けたときの状況は正直に言うとあまりよく覚えていない。おそらく何も考えず二つ返事で承諾したのだろう。その日の稼ぎで何とか食いつなぐ日々に慣れきった頭は、心で感じる以上に麻痺していたに違いない。
 そういう意味では、藍と引き合わされたときにも、まだ私は半分ほどしか醒めていなかった。
「いい? わたしの指示通りに動いてね。余計なことは考えなくていいから」
 初めて見たときから、彼女の両目は輝いていた。純粋に何かを夢見る目ではない。純粋に己の強さを信じる目だった。きっと既にこの世界への宣戦布告を済ませていたに違いない、と今なら思える。
 その目で私を見上げながら、彼女は用意してきたらしい「指示」を矢継ぎ早にまくし立ててきた。私はろくに味わわず丸呑みするようにそれを記憶した。

 私は従う立場だ。
 何のために何をするのか説明もされず、要求のままに動くだけの駒だ。
 夜明け前の街にあの三つ首のクリーチャーが現れたときもそうだった。襲撃に慣れた住人たちが冷静に避難する中、藍は私に車を指定の場所へ移動させることだけを命じ、それと全く違う方向へと走っていった。怪物に奇襲を仕掛けに行ったか、ひょっとしたら正面から戦いを挑んだのかもしれない。
 避難経路から外れた路地裏で、私は合図の警笛を待ちながら、一帯にとどろく破壊の音を聞いていた。
「ゼファール! これ後ろに積んで!」
 笛の音とともに車外へ出た私に、彼女は大きな物体を投げつけてきた。その重量のせいで大して飛ばず、途中から地面を転がってきたそれが何なのか吟味する暇などない。拾い上げて後部座席に積み込み、用意していたロープで縛り上げる間に、背後の建物が半壊する音と振動を何度か感じた。
 車の発進が鬼ごっこの号砲になった。彼女は助手席から道順を指示してきた。何度目かの右折の直前、サイドミラーのすぐ脇を熱線がかすめていった。

 私は普通の人間だ。
 新たな力を手に入れる可能性もなく、今後もずっと無力でいるだろう存在だ。
 案内に沿って走った先で行き止まりに出くわしたとき、私はそれを改めて思い知った。町外れにそびえるバリケードは荒野に住み着いたクリーチャーから土地を、そして往来する車を守るために作られたと聞いている。当然、車での強行突破は不可能な作りだ。私はハンドルを切ってバリケードの前から離れ、他の逃げ道を探そうとした。
 その直後にバリケードが吹き飛ばされ、長らく打ち棄てられていたかつてのハイウェイが姿を現した。
「引き返しちゃダメ。あの道に入って」
 方向転換が完了した直後に藍が言った。そのとき私は、残骸の向こうの荒野で戦うためにそうするのだと考えていた。
 彼女があのクリーチャーの首を刈り取る一部始終を私は見ていない。安全な場所に隠れ潜んでいたからだ。でも今度はきっと目の前で戦いを始めるだろう。いったいどんな風にして戦うのか。好奇心の後ろについてきたように、恐怖心が足音を立てて背後に迫っていた。
 しかし、瓦礫を乗り越えた先で彼女が命じたのは、停車ではなく直進だった。ようやくつかめたと思った作戦の全体像はあっけなく否定された。

 私は今更気づいた。
 この荒野に来て初めて、自分の論理でものを考え、雇い主に意見していた。
 それは単純に彼女の身を案じて発した一言だった。速度の差、ただそれだけのことなのに、ここまでの道のりでは思いつきもしなかった。どうしてそんなことも考えずにいられたのか、今となっては逆に分からない。
 当の雇い主が私の発言をどう思ったのかも、分からない。


「あいつ、思ったより根性あるわ」
 小声での一言をかろうじて耳に入れた。
 私はルームミラーを通して後方の様子をうかがった。
 一度は引き離したクリーチャーが再び距離を詰めてきている。この個体には翼がないから、持てるエネルギーのすべてを4本の足に惜しみなく注ぎ込めるのかもしれない。
「そろそろいい頃だし、スピード上げて。出せるところまで」
 言われるままにアクセルペダルを踏み込んだ。
 その直後に私は彼女の意図を疑った。
 目の前に広がる荒野が少しずつその姿を変えていく。丘を越えて下り坂に続く道とばかり思っていたのに、車は既に緩やかな下りの斜面に入っていて、しかし道路は確かにその先で一度途切れていた。隆起した地形ではなく、地面を横一線に走る大きな亀裂によって。
 まさか。
 道路が封鎖されていた真の原因はこれではないのか。
「止めちゃダメよ。もっと飛ばして」
 隣を見る余裕もなくなった。
 この状況での最善を言う前に拒否された以上、次善の策を考えるしかない。私は迫り来る断崖までの距離を目測で導き出し、思い出せる限りの知識を総動員して、次に求められる行動を予測した。
 地面の裂け目は車の全長より広く、飛び越すのは不可能ではなさそうだがそれはスタントの世界での話だ。素人が軽い気持ちで挑んでいいものではない。直前に停車を指示されることを期待した方が良さそうだ。
「いい? ゼファール。今後わたしと一緒に仕事するときは、もうちょっときれいな服を着てきてちょうだい。ひげも剃って。みっともないわ」
 この状況へ私を誘導した素人は早くも「次」を口にしている。何を考えているのか。
「今後、ですか」
「当たり前じゃない、こんな単純な仕事のためだけにあんなお金払わないわ。それにわたしだって死ぬためにこんな所へ来たわけじゃないんだから」
 そう、ここで終わりにしてなどいられない。
 急変した世界についていけない私と違って、彼女には将来がある。それを掴み取れるだけの秀でた才能もある。
「藍」
「何?」
「この次は何をすればよろしいでしょうか」
「決まってるでしょ、あれを飛び越えるの。十分助走をつけないと届かないんだからもっと飛ばして」
 悪い方の予測が当たってしまった。
 私は既に限界までアクセルを押し込んだ足にさらなる力を込めた。メーターの針が車の振動にあわせて小さく振れる。指された範囲の最小値を読み取り、頭の中で再計算を始める。
 指示があった以上、少なくとも根拠なしに投げ出すわけにはいかない。
「……もう少し、速度が欲しいですね。あなたのお力も借りたいのですが」
「何を言ってるの。わたしたちが自然に在るものにしか干渉できないって知らないの? 車なんて全部人間が作ったものじゃない」
「追い風をいただきたいのです。空気抵抗を減らせれば少しは」
「難しい言葉で言われてもわかんない。風が欲しいなら最初からそう言ってよ」
 彼女は突き刺すような調子で言いながら、助手席側の窓を開けたらしい。猛るような熱風が車内になだれ込んできた。
「だいたいどうしてあなたがわたしに指図するの。しゃべるようになったらなったで、全然面白くない!」
 不満の声に賛同するように風が騒いだ。
 空気の流れが変わった。外からの熱気が私の頬を張ってからすぐにまた車外へ出て行く。車の進み方の変化までは実感できなかったが、何かが起きたことだけは、私のすっかり鈍ってしまった勘でも何となく分かった。
 ジャンプ台が目前に迫る。
 私は正面から目を離さず、ハンドルを強く握った。


 身体が浮いた。
 一瞬だけ空が近づいた。


 強い衝撃にシートごと揺さぶられ、私はとっさにブレーキを踏んでいた。
 ハンドルの縁に頭をぶつけ、伸びきったシートベルトにかかった反作用で押し戻され、シートに背中を打つ。それから無事に停車したことを確信した。
 顔を上げると、まだ地平線の真ん中にいた。
 危なかった。
 止めていた息をゆっくりと吐き出してから、ふと車の後方が気になり、振り向いてみた。

 バックドアガラスのフレームの中で鮮やかな蒼色が宙を舞っていた。
 ドレス姿の人影が両腕を大きく広げ、フリルをはためかせ、クリーチャーの頭上を軽々と越えてから急降下していく。後を追うようにクリーチャーが崖の先端を踏み越え、落ちていく。
 合わせてわずか数秒間の出来事だった。

「どうして止めたの」
 耳元でささやかれた。
 心臓だけもう一度飛び上がった。
 すぐに助手席を見る。黒と青、左右違う色の瞳がこちらを見上げていた。今にも殴りかかりそうな形相をした藍はいつの間にか、白いTシャツに短いキュロットスカートという、ごく普通の服装に替わっていた。
「ぼーっとしてないで、走って。目的地はまだ先なのよ」
 異論も質問も一切受け付けない目つきだった。
「……はい」
 私は小さく返事をしてから座り直すと、車を再び発進させた。エンジン音に異常はない。室温の上昇を受けて空調がフル稼働を始める。
 助手席の窓を閉める小さなモーター音を聞きながら、見聞きしたものを頭の中で整理した。
 おそらく、私が崖の手前で車の進入角度を微調整している間だろう。彼女はあの派手なドレスを脱ぎ、窓の外に投げ捨て、それから自慢話の通りに風を操ってみせたらしい。ドレスをまとった風を、あのクリーチャーは敵と勘違いして、崖の下まで追いかけたのだろうか。私が見間違えたように。
 走行速度が安定し、着地後に一時停止したあたりが遠く見えなくなった頃、もう一度ルームミラーを見上げた。そこに追跡者の姿はなかった。
「もしかして、最初から、ああやって崖に落とすためにここへ?」
「あれはついでよ、ついで」
 危ない橋を渡った直後だというのに、彼女の声には少しも動揺が感じられない。
「では、あなたも崖のことは知らなくて、見えたから思いついたとか?」
「ううん、最初から知ってた。さっき言ったじゃない。わたしは空気のある場所ならどこだって、いつでも見に行けるんだから」
 下調べは済んでいたと言いたいのか。本当にそうだとしても、立てた計画は荒唐無稽もいいところ。今こうして自慢げに話していられるのも、風だけでなく運の助けもあってこそのことだろう。
 ひと仕事終えた冷房装置の風が弱くなるのを感じながら私は思う。
 これから先も彼女には運転手が必要だ。たとえ自分で免許を取れる年を迎えても、絶対に私が今いるこの席に座らせてはいけない。
「やっぱり暑いわ。後ろの荷物、届ける前に腐ってないといいんだけど」
 藍が助手席のシートを少しだけ後ろに倒しながら言った。
 これから私は後部座席の積み荷を誰かの所へ運ぶ仕事を手伝わされるらしい。クリーチャーの首を欲しがりそうな所などいくらでも思い浮かぶ。しかし今の調子では、貴重な研究材料を手に入れる幸運な人物がどこの誰なのか、到着前に知ることは困難そうだ。
 ルームミラーに再び不穏な影が映る様子はなかった。


 地平線はどこまでも続いている。
 真っ直ぐな道はどこまでも続いている。

 荒野を囲む山々の一角、稜線の向こう側に、太陽が沈んでいく。
 大地をオレンジ色に染め上げていく。

 一台のワンボックスカーがその荒野の一本道を走っている。
 迷いのない速度で、地平線のかなた、まだ見ぬ世界を目指して。


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