[ Chapter1「不本意な福音」 - A ]

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「ごめんなさい。私……好きな人がいるんです」
 その瞬間、サイガの高校一年生の夏は終わった。
 言われる気がしていた。言ってほしくなかった。心の隙間に封印していた思いが一挙に息を吹き返す。風のない蒸し暑さの中なのに、体の芯が冷たくなってきた。
 目の前でうつむく同い年の女の子を、その肩から滑り降りるつややかな黒髪を、もう直視できない。
(あいつだ。実隆(ミノル)だよな。これではっきりした)
 失いかけた正気を奮い立たせて、周囲を見た。
 住宅地に囲まれた小さな公園。夕暮れの前、まだ青空が残っている時間。
 低い柵の内側にいるのは二人だけ。ここへ呼び出すメールを送ったサイガと、そのメールを受け取った幹子(ミキコ)だ。柵の外にも通行人はいなかった。
 サイガが正面に視線を戻すと、ちょうど幹子が細い眉を寄せながら見上げてくるところだった。
「……あの、サイガくん?」
 いつも通りだ。声を聞いたサイガは思った。
 幼稚園にいた頃からずっと友達としてそばにいたのに、いつしか何かが変わって、違う人間になっていくように見えていた。その理由、ただの友達には抱かない特別な感情を意識してからは、もう元の関係には戻れないだろうと腹をくくった。
 でも、そんなことはなかった。目の前にいるのはまぎれもなく、いつも通りの、今まで通りの友達だった。
「聞こえてる?」
 突然、視界の色が変わった。
 幹子がサイガの鼻先で手を振っていた。
「携帯鳴ってるよ?」

 西原彩芽(ニシハラ・サイガ)。東京郊外のニュータウンの片隅に生まれ育ち、夏休みに入った直後に十六歳の誕生日を迎えた。そして今、多感な年頃に似つかわしい充実した夏休みを、ほろ苦い記憶で締めくくろうとしている。
 その名の一般的な読み、字面の可愛らしいイメージとは裏腹に、男として生まれた彼はそのまま健全な男子として育った。外見はさらに名前の印象から離れる。背丈は平均的だが、競泳で鍛えた身体と日に焼けた肌は精悍な顔をいっそう引き締めて見せていたし、何より黄銅色に染めた髪は常に人目を引いた。
 サイガと山口幹子、そして田坂(タサカ)実隆は十年以上の付き合いになる幼なじみで、地元の公立高校の同級生でもある。何事もなければあと二年半は顔を合わせ続けるはずだった。それゆえ募る想いはサイガを強く苦しめ、幹子の心の向く先を容易に気づかせもした。悩みに悩んだ末、夏休みの最終日であるこの日、ついに彼は告白に踏み切った。
 その結果がこれだ。電話を切ったら何を言えばいい。明日からどんな顔で会えばいい。覚悟を決めたはずなのに、それがもう根底から揺らいでいるなんて。
 サイガはこの時、そんな心配で頭がいっぱいだった。
 そんな心配しか知らなかった。

『サイガ!? すぐに帰ってきて!!』
 取り出した携帯電話の通話ボタンを押してから耳に当てるまでの間に、電話をかけてきた相手は悲鳴に近い声で話し始めていた。サイガは見上げてくる幹子の視線を気にしながら応答した。
「落ち着けよ、菜摘(ナツミ)。そんな大声出さなくても聞こえてる」
『それどころじゃないの! お父さんが、お父さんが大変なことに。も、もしかしたら、死んじゃうかもしれないって』
「はあ?」
 電話の相手、菜摘はサイガの三歳上の姉で、この春から隣県の短大に通っている。進学と同時に部屋を借りて一人暮らしを始めたが、夏休み中である現在は実家に戻っていた。今もちょうど家にいるのだろう。受話口からは他の家族の声もわずかに聞こえてくる。
「……生きてたの?」
『バカ!!』
 携帯を密着させていた耳が声を封鎖しきれなかったらしい。サイガはもちろん幹子までが、漏れ聞こえた怒鳴り声に目を丸くした。
『事故に遭ったのよ! さっき連絡もらったばっかりで詳しくは知らないけど、とにかく今危険な状態らしいの。いいから帰ってきて』
 弟が今どこで何をしているのか一切問わないまま、通話は一方的に切られた。
 後には事態を飲み込めない弟とその友達が残された。
「菜摘さん、何かあったの? すごく大きな声出してたけど」
「いや、よくわかんねー、けど、……なんか、今すぐ帰れって……」
「だったらすぐ行かなきゃ! ほら、急いで急いで」
 幹子は話の断片を聞くなりサイガの背中を叩いた。幼い頃から知っている菜摘のただならぬ様子を本気で心配しているようだった。
 背中を押されたサイガは掃き出されるように公園を後にした。脇の歩道へ曲がる直前になんとなく振り返る。見送る幹子の目元に輝くものを見たような気がして、思わず走り出していた。
 公園の入口が見えなくなるまで数百メートルの全力疾走。
 その後もサイガは惰性で走り続け、息苦しさが限界に近づいた頃に足を止めた。
(死んじゃうかもしれない、って、言われてもな……)
 車道と交差した道で車の往来がないことを確かめ、今度は歩き出した。
 彼らが暮らす街はありふれたベッドタウンだ。これといった名物もなく、目立つのは建て替えが進む高層マンションぐらい。中でも付近の幹線道路から大きく離れた、とりわけ静かな区域にサイガの家はあった。
 サイガは早足でたどり着いた自宅を見上げた。小綺麗な住宅が並ぶ中に埋もれたような平屋建て。錆びた風合いの木造家屋は明らかに周囲から浮いている。
(今さら何なんだよ)
 築五十年余という家屋と塀との間に、小さなプレハブ小屋の上部が少しだけ見える。庭の隅を占領するそれが物置ではなく、ある男が寝泊まりするための“離れ”であったことをサイガは知っていた。
 姉弟の父、西原陽介(ヨウスケ)。今年で三十八歳。
 その男は六年ほど前、謎の書き置きを残して家を飛び出し、姿をくらませていた。家族や知人が必死に探しても手がかりはつかめずじまい。しばらくして、海外に嫁いだ彼の実姉を唐突に訪ねてきたことで生存と日本出国が判明したが、その後の足取りは不明だった。
 しかし謎はどうやら最悪の、あるいはその一歩手前という形で、これから解決に向かうらしい。
(でも、あいつのことだ。また何かめんどくさいことやらかしたんだろ)
 サイガは門を開ける前に一度振り返った。さっきの公園に戻るという選択肢が一瞬頭をよぎったが、すぐにそれが何の意味もないと気づいた。
 門を抜け、数歩で玄関前に着く。ところが玄関の引き戸が動かない。鍵がかかっていた。
「畜生、鍵持って出ればよかった……」
 しかし門の外にまで戻ってインターホンを鳴らすのも面倒だ。サイガは正面から入ることを諦め、庭へ回り込んだ。
 まず離れが目に入ったがそこに用はない。庭を挟んで小屋と向かい合う“母屋”のガラス戸が開いていることを見つけたら、もう迷うことはなかった。
 靴を脱いで縁側に上がったサイガの耳に、さっき電話越しに聞かされた甲高い声が飛び込んできた。