[ Chapter5「ヒロインはどこへ消えた?」 - G ]

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 サイガは廊下を走りながら、目的地までの道筋を頭に描いては修正した。
 本当は正門を抜けて大通りを道なりに進むのが最短ルートだ。しかし上履きのまま昇降口を飛び出す直前、校庭を巡回するスキンヘッドの大男が視界に入り、反射的にUターンしていた。こんなときに“殺し屋”と鉢合わせて捕まるわけにはいかない。
 昇降口へ引き返してからは視聴覚教室と逆の方へ向かった。東から西へ。携帯電話を握りしめたまま、一階の廊下をほぼ端から端まで走りきり、その終点から外に出て校舎裏へ。薄暗い駐輪場を抜けると裏門が見えてきた。学校の外へ出た後は時間だけ気にすればいい。
 自転車の中に一台だけ混ざっていた大型バイクにすねを打ちつけ、痛みによろけつつも裏門にたどり着いたサイガは、施錠されていない門を全力で開けた。
 そして足がすくんだ。
 裏門の真正面のブロック塀に幼児がもたれかかっていた。桂だった。
「げえっ!?」
『やはり惑わされたか。少しは頭を冷やせ』
 可愛らしい刺繍入りのオーバーオールを着た推定五歳児が、サイガの頭を押さえつけるような重低音を発した、ように見えた。しかもそれは流暢な日本語だった。
「今度は何なんだよ。俺今すっげー急いでんだけど」
『引き返せ。貴様は自分が何をしているか理解していない』
「はぁ? 意味わかんねーし」
 サイガは後ろ手で可能な限り門を閉めてから、再び走り出そうとした。
 しかしそうする前に、桂がサイガの行こうとした方向へ先回りしてきた。
『行ったところで望み通りの成果は得られない。あるのは罠だけだ』
「だから何言ってんだ。お前、俺が今から何しに行くかなんて知らねーだろ?」
『不自然だとは思わないのか。考えてみろ』
 琥珀色の目が兄の顔を歪んだ形に映す。
『人を連れ去ったとする宣言は信用に値するのか。仮にその内容が事実だとして、その犯人は何故、被害者と血縁も交友関係もない貴様に連絡を寄越してきたのか』
「それを今から聞きに行くんだ。邪魔すんな」
『犯人は貴様の電話番号をどのように入手したのか』
「そんなの……」
 言いかけたものの続きが浮かばない。サイガは息を呑んだ。
 怪しい電話の言う通り陣内先輩が本当にさらわれたのだとしても、先輩の携帯電話からサイガの番号を見つけた、というのはまず考えられなかった。いくら共演者であり一緒に過ごす時間が長かったとはいっても、連絡先を渡せるほどお近づきにはなれていない。
 しかし電話の相手は初めからサイガを名指ししてきた。それに、先輩との関係も置かれた状況も、当たり前のように知っている口ぶりだった。
『平和慣れした貴様のことだ、いくら考えても答えには行き着かないだろうから、はっきり言っておく。人質が存在するかどうかは些細な問題。相手の狙いは貴様の命だ』
「またその話かよ……」
『死神の忠告を忘れたか。貴様を付け狙う輩は常識の枠を外れた事象をいくらでも起こせる。只の人間が敵う相手ではない。すぐにでも引き返し、居るべき場所へ戻れ』
 桂はサイガの行く手を遮るように左手を伸ばし、それから英語で何か言いながら校舎を指差した。
 同時に発せられる別人の声は一言ごとに重圧が増している。
 サイガは歯噛みした。
「……偉そうに言うけど、常識無視してんのはお前もだろ。そいつの口使ってしゃべるの気持ち悪いんだけど。それになんで電話のこと知ってんだよ」
『貴様は常に監視下にある。隠そうとしても無駄だ』
「あぁそうですか。こないだそんなこと言ってたな。盗み聞き余裕ならその技で先輩も探してくれよ、そうすりゃ俺は行かなくて済むんだけど」
『適切な対価を払うなら考えてやってもいい』
「冗談じゃねぇ。お前に払うモノなんか」
 サイガの頭の中で何かが弾け飛んだ。
 気づくと桂の進路妨害を振り切って走り出していた。今ならまだ間に合う。学校の外周を半分だけ回れば最短ルートに途中から入れる。もう時計を確かめる余裕はないが、体感時間ではそこまで大きくロスしていない、と思っていた。
 しかし、サイガが最初の角を曲がろうとする一歩手前で、またしても声が割り込んできた。
『ならば一つ命令する』
 来た道を振り返ると、桂の姿は変わらず裏門の近くに見えた。それなのに声は――サリエルの声は、サイガの耳元で発せられたかのように聞こえてくる。
『桜埜公園へ至る道順には二通りがあるだろう。細い方の道を往け』
「はい?」
 急ぎ足に再びブレーキがかかった。
 問題の公園は中層マンションの敷地にあり、名の由来である建物に沿って南北に細長い形状をしている。入口は大通りに面した南端と、住宅に囲まれた北端の二箇所。サイガが考えていたのは前者への道順だった。そしてサリエルが言う「細い道」は後者と思われる。
 今ちょうどサイガが足を止めた、この曲がり角が分岐点だ。
「……遠回りじゃねーか」
『これ以上邪魔をされたくなければ従え』
 有無を言わさない語調に背中を叩かれ、サイガはしぶしぶ方向転換した。
 三度走り出してからは、声が割り込んでくることはなくなった。だれともすれ違わなかった。十字路を一つ通過するごとに忠告を忘れ、妨害を忘れ、ただ一人の安否を案じながら、人の気配がない道を突き進んだ。
 煉瓦色のマンションが、そしてその脇に茂る緑の一帯が見えてきた。
 運動部で鍛えているとはいえ何分も全力疾走し続けた後はさすがに苦しくなる。サイガは少しだけ速度を落とし、疲労を息と一緒に吐き出しながら、例の桜埜公園にたどり着いた。
 入口に一歩踏み込んだ瞬間。
 何かが破裂する乾いた音を遠くに聞いた。
 憩いの場を覆う枝葉のアーチが一斉にざわめいた。
(何だ!?)
 サイガはあたりを見回した。しかし眼に入るのは無人の遊具やベンチばかりだ。
 一瞬わずかに感じた不安を強引に押さえつけて数歩だけ進む。聞こえるのは頭上に緑の枝を伸ばす樹木の葉ずればかり。陣内先輩も、電話をかけてきた男かもしれない人物も、公園の中には見当たらない。
 ここで待てばいいのか。それとも。
 携帯電話の画面を見ようとしたサイガは、突然、真後ろから肩をつつかれた。
「何してるの?」
 呼吸も思考も忘れて振り向いた。
 サイガの視界に入ってきたのは、女だった。
 肉厚な唇に浮かべた真紅の微笑み。竜巻のような巻き髪。大きく開いた襟元を持ち上げる胸。そのすべてを包み込む甘い香り。
 先日ドラッグストアで出会った女だった。
「あっ……」
「探しもの?」
「人と待ち合わせしてて。すいません、急いでるんで」
「どんな人?」
 問われたサイガは言葉に詰まった。
 そういえば、誰を待てばいいのか知らないままだった。相手が公園で待っていることだけは間違いないし、行けばすぐ分かるだろうとしか思っていなかった。答えようがない。
 サイガが黙っていると、女は小首をかしげ、それからこう続けた。
「本当はセンパイを探してるんでしょ?」
 心臓が肋骨を突き破るような衝撃がサイガを襲った。
「やっぱりキミくらいの歳の子って、ああいうコに憧れるの?」
「ちょっ……何言って……」
「ふふ、可愛い顔」
 女は楽しそうに言って、サイガの正面に回りながら詰め寄った。サイガは首を元の向きに戻しながら後ずさりしたが、手の届く距離から離れる前に、細い指に両肩を押さえられた。
「いくら待ってもお探しの人は来ないわよ。それより、私と楽しいコトしましょ?」
 口を開きかけたサイガに白い顔が迫った。
 塞がれた唇が柔らかい感触を認識する間に、液体とも蒸気ともつかない何かが口の中に流れ込んできた。サイガは得体のしれない不安を感じ、とっさに息を止めたが、鼻の奥にまで侵入した甘い香りが次第に抵抗する力を奪っていった。
 筋肉の硬直が緩んでいく。
 全身が熱くなっていく。
 意識が溶けていく。