[ Chapter20「気になる少年たちの事件簿」 - F ]

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 ウィルは少しずつ身体の自由を取り戻していた。
 取れる行動が増えるほど、今いる場所の狭さを実感した。
 そのたびに自分が置かれた状況の異常さと理不尽さを噛みしめた。
「出ようとするな。窓にも近づくな。この部屋が外とつながってしまったら、安全な場所はどこにもないと思え」
 脅しともとれる言葉を残して一真はどこかへ行ってしまった。もし外出したなら既に「外とつながって」いることになるはずだが、今のところは何も起きていない。出入りする方法は何かしら存在するのだろう。
 室内を歩き回るうちに日が暮れた。
 横になって休んでいたら夜が明けた。
 時間の経過を知るすべは、窓をふさぐ板の隙間からわずかに漏れる光と、彼自身の体内器官が紡ぐ不安定なリズムしかない。天候か体調が悪くなれば簡単に崩れてしまう弱い指標だ。正確な情報を得られたところで何の意味もないのだが。
(味方が来る見込みはない)
 ベッド代わりのマットレスに全身を預け、毛布の中に沈んだ。
 その身は人間たちのもとにいたときより軽くなっていた。背丈は一真を基準にした目測で二割ほど、手足の長さもそれなりに削られている。銃を扱う場面が来ても支障はなさそうだが、襲撃を受けることを想像すると心配の種がいくつも浮かんだ。
(分かっている。最早そんなものは存在しない)
 いつか見た幻影が意識の奥に映った。
 セラフィエル教官が手を伸ばし泣き叫ぶ。その姿が遠ざかり、かき消える。それらの光景がどんな意味を持つのか、事情を知った今なら解る気がした。
 あれは教官が抱え続けてきた罪の記憶だ。
 あれは堕天使が捨てなかった希望の断片だ。
 レポートを不合格にされた日、幻覚のことを聞いた教官はそれを口外するなと言った上で、その理由や意図を一切語らなかった。折を見て話すつもりではあったのだろう。しかし結局は本人から直接ではなく、重孝の意識と手を借りる形で知ることとなった。
《先生はずっと昔、この世界に来て働いていたことがあったそうです》
 記憶に刻み込んできた手紙の一文をなぞった。
 ウィルが補習に送り込まれる際に与えられたかりそめの肉体は、教官が物質界に派遣されたときの姿を再現したものだという。この街で雑踏に紛れようとしても浮いてしまい、しばしば好奇の目を向けられる容姿。それをあえて選んだ節は日記帳の記述から感じるときもあったが、試練のつもりやただの手抜きではなかったらしい。
 いつかの時代に物質界のどこかで戦っていたとき、その傍らに、奴がいた。
 情報がひとつ加わっただけで認識も解釈も変わる。特定のメッセージをただ一人へ訴えかけるための旗印だというなら、その相手にひと目で伝わればいい。
 上層部が命じた正規の作戦でないから、訓練生には姿も身分も用意されなかった。そんな単純な現実をうまいこと利用したつもりかもしれないが、それにしても他にやり方はなかったのか。
《先生にとっては大切な仲間のひとりでした。でも、先生が大きな失敗をしたとき、そのひとが先生を助けようとして規律を破ってしまったそうです》
 何をしでかしたかまでは書かれていなかった。重孝も詳細は聞かされなかったのか、手紙にしたためる前に記憶が薄れたのか。確かめようのない欠落は無視するほかない。
 とにかく違反を問われた両名は任務を解かれ、本陣へ送り返された上で取り調べを受けた。特にサリエルは重い罪に問われたらしい。セラフィエル教官が自分の責任を主張し仲間の減刑を訴えるも認められず、半永久的に自由を奪われる罰が科されたという。
 その結果、貴重な“賜物”の持ち主が天の軍勢を離れるという事態を招いた。
《脱走するとき先生もその場にいて、つい「必ず助けに行く」と言ってしまったそうです。そのせいで先生は天の国から出ることを禁止されました。その後は過去のことを一切振り向かないでまじめに仕事をしたから、教官になれたのだと話していました》
 訓練学校の教官は決して高い地位とはいえない。まして一度は罰せられている身だ。審判を司る同胞たちがその言動をマークしないはずがなかった。
 いつの間にか日記帳が力を失ったことにはそれで説明がつく。いつか監査が入ると教官自身も自覚していたから、あらかじめ重孝に伝言を託していたのだろう。
 しかし彼らはこれまでの補習プログラムを、教官が並べただろう言い訳を、止めなかった。分かるはずなのに泳がせ続けた。それは何故なのか。
(やはり、人質がいるから、だろうか)
 脱走兵の味方をするのはどう考えても罪だ。
 だがセラフィエル教官は日記帳の記述において、落伍者をあくまで攻略すべき敵として扱っていた。救うべきは契約の巻き添えになった少年の方。その点は最後まで変わらず課題の軸となっていた。
 物質界に在るすべてのいのちは保護されるべき対象である。
 悪魔の手先となった者、世界そのものに牙を剥きこれを壊す者は排除せよ。しかしそうでない者を同様に扱ってはならない。
 天の軍勢に連なる誰もが訓練の最初にたたき込まれる基本中の基本だ。守護天使たちも上層部も覆せない原則だ。今のところ、その点を破った覚えはない。
(俺だけではない。これまでに出会った同胞の内で、西原彩芽をも敵の一員に数える者はいなかった)
 教官がもくろんだのは、動けない自分の手足として教え子を現場に送り、堕天使と接触させることだったのだろう。あの幻影を通し、かつての仲間が約束を覚えていると知った以上、自身の発言を無視しきれなくなったのかもしれない。
 しかしウィルが実際に接触した堕天使は、「遅過ぎる」と言っただけで攻撃も誘惑もしてこなかった。ついでに言えば邪魔をされた際には余裕たっぷりの反撃をしてきた。本当は昔の言葉など実現しないと割り切っていて、あの幻影は挑発だったのかもしれない。
 どちらの思惑も知らないまま、ウィルは橋渡しをしてしまった。無自覚の行いまでもが裁きの対象とは聞いていないが、訓練生としての評価は大いに下がっているだろう。
 そして、一部とはいえ事情を知ってしまった今。
(俺がかばったのは、人間だ。落伍者じゃない)
 脱走兵サリエルがこちらに全く無関心というわけではないことは分かっている。向こうから近づいてきたり、直接対決した際は手加減したり、追われる身らしからぬ行動もあった。
 奴はどこまで教官の存在を意識しているのか。
 何度も挟み込まれた課題や演習は本来の目的をごまかす目くらましだったのか。
 人間のために受けた銃撃は敵をかばったとみなされてしまうのか。
 学んだことを活かせる道は。
 この先自分が生き残る道は。
(ある……のか?)
 天井に代わる代わる映っていた記憶が一瞬で消えた。
 室内の様子は何一つ変わっていない。
 ゆっくりと起き上がったウィルの体調にも、もちろん姿にも、変化はない。
 形はどうあれ今もこうして存在を保っている以上、次の行動を起こすチャンスは残っている。しかし本当に教官がこれまでの背信を問いただされている最中なら、間違いなく裏切りの「実行犯」たる教え子を放置するはずがなかった。
(味方が来る見込みがない、とはそういう意味だろう。ならば、そんな俺をわざわざ手間をかけて助けたのは、何のためなのか)
 静寂に慣れた耳が足音を鋭く捉えた。
 何らかの手段で外へ出ていた一真が、同じく秘密の方法で部屋に戻ってきた。服装は最後に見たときと同じでも、雨降りの中を移動していたらしく、両肩が濡れていた。
「調子はどうだ。そろそろじっとしているのが退屈になってきたか」
「どうして俺を助けた?」
「おっ?」
 一真は背負ってきた荷物を床に置きながら愉快そうに笑った。
「俺をここへ連れてきたときから味方はいないと言っていた、その根拠は何だ。あの作戦の前に教官のことを聞いたからか。それともあんたは」
「そりゃあ簡単だよ。同じ主に仕える者を助けない道理はない。上がどう言おうと、新米くんには何のお達しも何の裁きも来てないだろう?」
 言葉そのものは真っ当で語りかけは優しい。
 が、目の奥底は冷え切っている。それは裏切りの片棒を担いだ後輩をさげすむ色でも、哀れむ色でもなく、もっと違う光を見ている様子だった。
「俺には俺の目的がある。というか、あの作戦はまだ終わっていない。それをきっちり果たすまでは帰るに帰れない状況だ」
 未だ身分を明かさない天使はマットレスの端に腰を下ろした。
「幸いここに共通の敵を持つ仲間がいる。できればその手を借りたいと思ってる」
 片手を差し出された。
 ウィルはその手を取らなかった。