[ Chapter20「気になる少年たちの事件簿」 - E ]

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 重孝の指先が向けられた先を、彼が見ているものを、まりあは何度も目でたどって確かめた。そして錯覚でも思い過ごしでもないと分かると、再び振り向いて答えた。
「私の調べ物は、まだ終わっていません。たいしたことではないのですが……」
「見せて」
「えっ」
「調べ物」
「ええっ……こ、これのこと、ですか?」
 まりあが資料のコピーをおそるおそる示すと、重孝は深くうなずいた。
 確かめてもなお信じられない。この瞬間にも彼はずっと高い視点からテーブル上を見下ろしていて、学校の勉強と関係ないことくらいは分かりそうな気もするのに。
 頭をよぎるのは驚きや疑問ばかりで、しかし断る理由はひとつも浮かばなかった。
 考えた末、
「……どうぞ」
 まりあはテーブルの端に集めていた参照済みの資料を取り、後ろを向いて差し出した。
 それを受け取った重孝は一番上の冊子をつまんでぱらぱらとめくり、しばし考え込むように固まった後、まりあの横に回った。そして空いている椅子を引いてそこに座ると、改めて最初のページの黙読を始めた。
 彼の横顔は、少なくとも、笑っていなかった。
(ああ、びっくりしました。でも、どうして急に?)
 冷静さがある程度戻ってくると、まりあは隣を見続けることを申し訳なく感じてしまい、視線を先ほどの地図に移した。
 どうして、が気になっても言えない。ここは図書館だ。私語はどうしても周囲に聞こえてしまう。
 直前に自分が考えていたことをなんとか思い出し、もう一度テーブル席から離れた。昨年十月の新聞の縮刷版はすぐに見つかった。週刊誌の記者が不審者に襲われ負傷したとの記事とその続報をコピーして、本を書架に返してから席に戻ると、白地図に書き足した。
 場所も時間帯も、もしやと思った通り、それまでに起きていた通り魔事件と似通った条件だった。しかしそれ以上のつながりは見いだせなかった。
 隣の様子をうかがうと、重孝は借りた記事を広げたその上に手帳を広げ、何かを書き込んでいるところだった。文章ではない。ペンを持った手の大きな動きは、ページ全体を使って図や絵を描くときのものだった。
 覗き込むか、それは何と尋ねるか。
 迷うあまりどちらにも踏み切れなかったまりあの耳に、素朴でゆったりしたメロディが聞こえてきた。『蛍の光』だった。
(閉館? もうそんな時間ですか!?)
 顔を上げれば、同じように館内放送を聞いて反応した人たちが帰り支度を始めていた。まりあも手元の資料を閉じて一つにまとめたはいいが、それをバッグに入れようとして、本の背表紙に目が吸い寄せられた。
《禁帯出》
 地図が載った本には新聞の縮刷版と同じ、貸し出し対象外を表すシールが貼られていた。
 まりあは確認不足を悔やみつつその本を抜き取ると、もともと持ち込みだった他の資料をバッグの中へ収め、それから隣の席へ小声で呼びかけた。
「柳さん。閉館時間になりましたので私は帰りますが、その記事、どうされますか?」
 彼女としてはそのまま貸すことも視野に入れた簡単な確認のつもりだった。沼田たちへ返すのは新学期でもいいと言われていたので、次の登校日に会えなくても困りはしない。
 しかし相手は何も言わなかった。言葉という形では何も答えず、筆記を止めて手帳を閉じると、資料の端を揃えて持ち主の手に返した。そして椅子から立ち上がり、流れるような動作で地図の本を取り上げた。
「えっ、それは、どうされるのですか」
「返却」
 当然と言わんばかりの答えを残し、重孝は書架の方へ行ってしまった。
 相次ぐ唐突な行動にまりあは返す言葉を忘れかけた。思い出してしまうと気を遣わせてしまったことが申し訳なくなり、先に帰るどころか、戻ってきた彼に頭を下げずにいられなかった。
「元の場所に戻してくださったのですよね。ありがとうございました」
 首をかしげながら見下ろしてくる重孝と一緒に、まりあは図書館の外へ出た。
 ニュータウンの中心に近いこの場所からまりあの自宅までは距離がある。日が暮れるまでいるとは思っていなかったが、まだバスは走っているだろう。
 しかしバスに乗ってしまえば、隣を歩く級友とはそこでお別れだ。文化祭の前に遭遇した出来事を振り返らなくても、彼の自宅の方角が自分のそれとまるで異なることは覚えていた。
 だから、一番気になっていることを、その場で尋ねることにした。
「柳さんは、どうしてあの記事を見たかったのですか?」
 重孝が急に立ち止まった。
 一拍遅れて反応したまりあが振り返る間に、彼は後ろに回した手で携帯電話を取り出していた。
「人捜し」
「え?」
「いなくなった」
 ボタン操作で呼び出された画面がまりあの前に示された。
 その端末で撮影されたらしい一枚の写真は、美しい金髪の青年が何かを真剣に見つめる姿を捉えていた。
「この人……! あの……文化祭のとき、柳さんと一緒にいらした方ですよね?」
 まりあが画像から連想したものはもっと最近の出来事だったが、そのことを言っても相手に伝わりはしない。時期をさかのぼり別の記憶を口にすると、重孝は端末を向けたままうなずいた。少し嬉しそうに見えたのは気のせいか。
 つられてまりあも口元を緩めかけたが、直前に聞いたことを思い出して顔全体がこわばった。
「いなくなった? ……この人が?」
 無言でうなずかれた。
 あっさり肯定されてしまった。
 どう考えても大変な事態で、すぐにでも詳しく聞きたいところだが、その前に確かめるべきことがある。
「そのことと、さっきの記事に、何か関係があるということですか?」
 全く同じ調子でもう一度うなずかれた。
 写真の青年と都市伝説の登場人物。一見結びつかない二人に接点があることをまりあは知っている。とはいえそれを「いなくなった」ことに関連づけてしまうのは少し大げさな気がした。
 どうして彼は自信があるように首を振ったのか。
 尋ねようとしたまりあの首筋を冷たい風が撫でた。こんなところで立ち話をしている場合ではない。はっきりした現実を肌と耳に突きつけられ、出かかった言葉を喉の手前で抑えたそのとき、画像の上に表示された封筒型のアイコンが目に入った。
「あ、あの」
 まりあはバッグから手帳とボールペンを取り出し、メモのページに一行分の情報を書くと、ページを書いて重孝に差し出した。
「私のメールアドレスです。その人の詳しい情報を、ここに送っていただけませんか。私にもお手伝いさせてください」
 重孝はやはり何も言わず、しかしメモの切れ端は素直に受け取ってくれた。
 それから二人は簡単な挨拶を交わして別れ、まりあは遠くに見えるバスの行き先を気にしながら停留所へ急いだ。その一台が予想と真逆の方向へ走り去った後、焦りで乱れた呼吸が落ち着いた頃に、別の一台がやってきた。
 まりあを乗せたバスは鉄道の高架をくぐり、商店やオフィスビルが集まるエリアを抜けて住宅街へ入っていった。十字路をゆっくりと左折しているとき、車体の揺れに紛れるように、彼女の携帯電話が短い振動音を発した。
 画像付きのメールが一通届いていた。
 電話番号と名前を合わせたシンプルなメールアドレスの差出人は題名で名乗っていた。
(柳さん……こんなに早く。まさかあの後すぐに書いて……?)
 手早くアドレスを電話帳に登録し、メール画面の表示の一部が変わったことを確かめてから、本文を読み進めた。
《この人はウィルといいます。本名はわかりません。去年の9月から僕の家に住んでいます》
 添付画像は先ほど見たものとは違う写真だった。青年ウィルの険しい視線がはっきりと撮影者に向けられている。
《ウィルは、あなたが調べている怪人を捕まえるために、この町へ来たそうです》
 本文の先頭に戻ろうとして目についた一文が、まりあの頭と両手を凍らせた。
 次の停留所を案内する自動音声は隙間風ほどにも届かなかった。