[ Chapter7「新たなる課題」 - B ]

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 季花高校の文化祭は二日間の日程を盛況のうちに終了した。伝統の合同劇も無事に、そして好評の中で、全二回公演の幕を下ろした。
 生徒たちは代休となった月曜日に羽を伸ばし、翌日には普段通りの顔で授業に復帰した。そしてすぐに十月、衣替えの日を迎えた。通学路は黒の学ランと紺色のセーラー服であふれるようになった。
「でも、陣内先輩は、まだ休んでるんでしょう?」
「そうみたいですぅ」
 祭りの余韻がようやく静まった木曜日。
 一時限目を終えた一年三組の教室は、眠気を誘う授業の反動もあってどこも騒がしかった。それは教室の後方にあるまりあの座席も例外ではない。というより、彼女の隣こそが最大級の音源だった。
「あの時の記憶が戻ったって話聞かないし。やっぱりあの事件に巻き込まれてたのかな」
「桜埜マンションの立てこもり?」
「ううん、誘拐の方」
 文化祭当日の夜以降、様々なメディアで、立てこもりの件について細かいネタを集めたような報道が続いている。しかし生徒たちの秘密の掲示板では、公共の電波に乗らなかったもう一つの事件の方がより大きく取り上げられ、より多くの注目を集めていた。
 いわく、人質解放の交渉が進んでいる最中に、その現場近くで何者かに傷めつけられた男たちが発見された。警察が保護して証言を集めたところ、彼らが一人の女子高生を車に監禁していたことが判明し、翌日の夜までに負傷者全員が逮捕された。身元不明の被害者は現在も行方がわからず、懸命な捜索が続けられているという。
「ちょうど先輩がいなくなったぐらいの時間だったっていうし」
「えー、そうかな? 見つかったのはその変な人たちと別の場所なんでしょ?」
「絶対関係ないと思う。それよりあれでしょ、あれ!」
 まりあはすぐ近くを跳びはねる好き勝手な憶測をぼんやりと聞いていた。
 例の掲示板のURLとパスワードは以前に幹子が転送してくれた。しかしまりあはなんとなく興味を持てず、今日まで一度も閲覧していなかった。そのせいか隣の席で盛り上がる話に全くついていけない。
 それどころか、このまま聞き続けることも次第に心苦しくなってきた。
「前にも話したかもしれないけど……ほら、陣内先輩の、彼氏の話」
 隣席の主、依子が途中から急に声を潜め、友人たちを机の周辺に引き寄せた。城壁のように固められた背中のスクラムが依子の手元を隠したが、小声の続きはまりあにもよく聞こえた。
 陣内先輩が予備校で知り合い、親密になったという男がいるらしい。
 その男には良くない噂がいくつもついて回っているらしい。
 だから先輩も、もしかして裏では。
 そんな安直な三段論法を依子は楽しそうに話す。まりあにはその主張が理解できなかったし、少しも面白く感じられなかった。
「本当は忘れたんじゃなくて、言えないのよ、きっと」
 人を勝手に悪い人に仕立てあげながら、どうして笑顔でいられるのでしょう。文化祭当日は素直に無事を喜び合っていたはずなのに。
「裏庭にもいろいろ書いてあったけど、私は違うと思う。たとえばね……」
 もうやめてください。
 まりあは想いを口から出す前に一時停止させた。本音を思いついたままに言えばいいものではないし、もっと聞き入れられやすい言葉はないものかと、しばし迷った。
 その瞬間を狙ったかのように、外野から一声が打ち上がった。
「ん? ……んんん!?」
 それは広範囲に届く声量ではあったが、すぐ周囲のざわめきに埋もれていった。
 しかし直後に同じ場所で椅子が倒れ、もっと派手な音を立てた。
 今度は学級の八割以上が雑談を止めて音源の方へ注意を向けた。まりあもその大多数と一緒になって顔を上げ、隣の集団はばらばらなタイミングで振り向いた。そして依子が盛大に舌打ちした。
「また沼田ぁ? 本当ウザいんだけど」
 名指しの通り、突然立ち上がり椅子を倒したのは沼田だった。依子と同じ列の中ほど、前から三人目の座席で、小柄な背中が震えていた。
「来た……ついに来た……スクープだっ!」
 そして沼田は真っ先に目が合ったサイガを捕まえ、手に持っていた冊子を級友の顔の前に押しつけた。
 派手な見出しを散りばめた週刊誌の表紙がまりあの視界に一瞬入った。
「見ろよサイガ! ここ! この記事っ!」
「はぁ……『マンション立てこもり“早すぎた突入指示”警察が前代未聞の大失態』……こないだの事件の話かこれ。今さら騒ぐことかよ」
「そこじゃなくて、いやその記事なんだけどさ、ここ! こ・の・写・真!」
 サイガは早くも話を切り上げたい意思を顔に出していた。彼の席は沼田のひとつ前。背後の音に反応して振り返ったために話し相手として捕まえられたなら、それは不運としか言いようがない。
 沼田の方はお構いなしにまくし立てていた。片手で週刊誌を握って垂直に立て、もう片方の手は記事の端を叩くように指差している。
「分かるか? この白い影。警察じゃない。犯人でもない。ほら、こっちで被せられてる上着と色違うだろ。白黒写真でこの驚きの白さ!」
 週刊誌が表紙を下にして沼田の机に叩きつけられた。
「怪人ルシファーだ。間違いない。事件現場にいたんだ。本当に、いるんだよ、ヤツは!!」
 教室の空気から一瞬だけ熱が消えた。
 まりあが左隣や前後を見たとき、級友たちはそれぞれの雑談や次の授業の準備に戻っていた。教室内の別の場所にいた幹子がまりあの手前の席へ戻ってくる様子も見えた。
 二時限目のチャイムが近づいてくる。既に周囲のほとんどが話を聞いていないのに、沼田の熱弁は止まらない。
「ちょっ、サイガ、何だよその顔! いいか、こいつが本当にいたってなるとだな、いろいろ説明がつくんだよ。陣内先輩のことだってそうだ」
 机の中の教科書を取ろうとしたまりあは思わず手を止めた。
「先輩はきっとヤツにさらわれたんだ。でも先輩はいい人だから、きっと怪人の質問に正直に答えたんだよ。それで解放された。そしてその間の記憶を取られた。これがオレの仮説だ、結構いい線いってると思わない?」
 上機嫌に背中をそらす沼田の前で、サイガは複雑な表情を浮かべていた。
 呆れている、それだけじゃない。何か言いそびれている。まりあにはそう見えた。
「あの噂の怪人と出会って、生還した! 生き残り! そうだよサイガ、お前と同じなんだ。重要な証人が二人もこの学校にいるなんて。こうしちゃいられない、殺し屋に握り潰された文化祭の発表も今すぐ書き直さないどあでぇっ!?」
 突然Uターンして走り出そうとした沼田が、最初の一歩を踏み切らないうちに硬直した。そして苦悶の表情を教室後方に向けた状態で固まった。
「待て。お前今から三年の教室行こうとか考えただろ」
 まりあが目で確かめられたのは、サイガが右手で沼田の右手首を掴んでいることだけだった。しかしただ持っているにしては沼田の顔のゆがみ方が大げさすぎる。見た目以上に強い力で握られていたのかもしれない。
「これから授業だろーが。俺もお前も。それに先輩方は受験控えた大事な時期だ、お前のお遊びに付き合う暇なんかあるわけないよな?」
「あ、あい……」
「陣内先輩には何もするな。周りも嗅ぎまわるな」
 余計な真似をしたらお前の肉を切り取る、とでも続けそうな口ぶりで。
 観客も共演者も圧倒したあの舞台を思い出させる眼差しで。
 サイガは沼田を、舞い上がる心を、ねじ伏せた。
(……西原くん)
 消えないざわめきの下、もはやまりあだけが見守る中で、沼田が倒れた椅子の隣に座り込んだ。グシャグシャになった顔は泣き出す直前の子供のようだった。
「わーん池幡ー、サイガが久々にこえーよー」
「どうせまたバカなことほざいたんだろ、さっさと立てホラ」
 呆れつつも沼田を助け起こす池幡の姿に隠れ、サイガが黒板の方を向く直前の表情は分からなかった。まりあの胸にはいくつか混ざり合った心配と、かすかな違和感が残った。
(確かに先輩方はお忙しいですが……どうして、あんなに強く言ったのでしょう?)