[ Chapter14「樅の木は見ていた」 - B ]

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 ゲレンデで過ごす時間はあっという間に過ぎ去った。
 まりあが日没に気づいたのは、リフトから降りた人々が競うように西の空を指す様子を見たときだった。両親との約束を思い出し、ウェアの袖をめくって腕時計を確かめると、家族三人が落ち合うと決めていた時間を大幅に過ぎていた。
(急いで戻らないと。きっと私のことを心配しています)
 彼女は迷わず最後の滑降を始めた。
 金色に輝く雪をスキー板で散らし、この日滑った中で一番安定したカーブを描き続けた。
 不気味なほど赤い空から逃げるように。

「あの後学校の友達とは会えたの?」
 ホテル内の大浴場で汗を洗い流す折、まりあは母親に尋ねられた。
「いいえ、残念ながら」
 娘は首を横に振ってから、全身にまとった泡をシャワーで丁寧に落とした。
 今日のゲレンデはどこを見ても人が多かった。しかもほとんどの客は帽子やゴーグルで顔が隠れている。実は気づかないうちにすれ違っていたかもしれない。
 そんなことを思いながら鏡の前を離れ、かけ湯をしてから浴槽に足を浸した。落ち着く位置を見つけて肩まで温泉につかると、間を置かず母親が隣に来た。
「そのペンダント、つけたままだったのね」
「あ、これは」
 まりあは首元を隠すように片手を置いた。
 細い鎖で吊されたメダルを、この場所では少しも冷たく感じなかった。
「……その、なんだか、なくしてしまいそうな気がしたので」
「心配性ね。それだけ大切ってことなんでしょうけど」
 母親は声を立てずに笑っていた。
 まりあは頭まで湯の中に沈んでしまいたい気分になった。
 何しろこのメダルの意味も来歴もすべて知られているのだ。言葉自体にはひとつの破片も含まれていないのに、誰を思い浮かべてそう言っているのか、嫌でも分かってしまう。
「そういえば、あの人からも年賀状来てたわね」
「お、お母さん、どうしてそれを……!?」
 口走った瞬間、まりあの視界が突然暗くなった。
 彼女の意識は途切れていない。周囲を見渡せば、露天風呂と大浴場を隔てる磨りガラスの扉がやけに白く光っているほかは、一切の明かりが消えていた。
「あら、停電?」
 母親が小首をかしげる横で、別の誰かの影が動いた。
 外の雪明かりだけに照らされた浴槽を急ぎ脱出した女性がいたらしい。誰に宛てたともつかない愚痴が途中で悲鳴に変わり、まりあたちの前で派手に転んだその人は、あたふたと脱衣所へ入っていった。
 その脱衣所はまさに真っ暗だった。引き戸が開いた瞬間に暗闇が垣間見えると同時に、もっと大きい声の文句や嘆きが大浴場まで流れ込んできた。
「ちょっと! ケータイつながんないんだけど!」
「こっちもだめ、電波届いてない!」
「今の手誰よ! 触ったでしょ!?」
 少しだけ暗さに目が慣れてきた母娘は顔を見合わせた。
「しばらくここで待っていましょうか」
「はい」
 それから待つこと数分。
 消えていた照明が一斉に再点灯し、大浴場は安堵と歓喜とひそひそ話に沸いた。やや遅れて館内放送が流れたようだったが、それは誰の耳にも届かなかった。
 停電が解消されても混乱は収まらず、ここにはいられないとばかりに客が脱衣所へ殺到したのだ。ひときわ騒がしい集団が去った後、ようやくまりあたちも脱衣所へ移動し、客室から持ってきた浴衣に袖を通すことができた。
(驚きましたけど、復旧してよかったです。先ほどの皆さんも落ち着きを取り戻しているとよいのですが)
 まりあは脱衣所に備え付けのドライヤーで髪を乾かしながら、電力の恩恵を静かに噛みしめていた。しかしほとんど乾かないうちにふと手が止まった。
 熱風を起こすモーターの音に、一瞬だけ異質な音が混じったような気がした。
 少なくともまりあにはそのような音が聞こえた。とっさにスイッチを入れ直してみたが、ドライヤーが壊れている様子はなかった。
「気のせいでしょうか……?」
 口にしてみても心配は消えない。まりあはドライヤーを元の位置に戻し、半乾きの髪は後で改めて整えることにした。
 手荷物を巾着袋にまとめ、客室に戻るための一歩を踏み出した、その時。
 今度は確かにその耳で聞いた。
「……え?」
 まりあは余計に戸惑った。周囲を見ても、天井を眺めても、音の出所が分からない。
(今、確かに、『助けて』と聞こえました)
 気づいたときには衿の間に手を入れ、祈りの言葉が刻まれたメダルを握っていた。
 途切れ途切れの音を結んでみたらそう聞こえたというだけで、その声が男か女かも分からない。それでも一度そうだと頭が判断してしまうと、他の可能性は何も思いつかなくなっていた。
(でも、どこから、どうして。私に何ができるでしょう)
 まりあは脱衣所全体の様子を見て回り、ついでに大浴場の中ものぞいてみた。苦しそうにしている客はいなかった。結局気のせいだったのか。
「何してるの、もう行かないと。きっとお父さん待ちくたびれてる」
 もたつく娘に母親が声をかけてきた。まりあは謎の声のことを自分の胸にしまい、家族の背中を追った。
 女湯の赤いのれんをくぐると、空間を埋めるざわめきの色合いが少し変わった。老若男女、家族連れや友達の輪、仲睦まじいふたり。様々な人が行き交っている。
 その中を数歩と進まないうちに、まりあは知っている顔を見つけた。
「あ、西原くん。こんばんは」
 最近は茶髪にしている同級生が、ホテルの浴衣と羽織をまとって壁際に立っていた。彼もまりあに気づいたようで、小さく会釈だけを返してくれた。
(ちゃんと聞こえたようです。でも年が明けてから最初にお目に掛かったわけですし、きちんとご挨拶をした方が良かったでしょうか?)
 口にしたい言葉はすぐに浮かんだが、足は既に何度も進んだ後で、距離が開いている。それでも少し名残惜しく、まりあはつい振り返っていた。
 まさにその瞬間、サイガの前を若者の集団が横切った。端の一人は壁際を歩いていた。
 彼らはサイガと音もなくぶつかって――すり抜けていった。
 立ち上る湯気の中をくぐるように通り過ぎていった。
(えっ……今の、何……)
「どうしたの? 誰かいた?」
 真っ白になりかけた頭に、馴染んだ声がよく響いた。
 まりあは通路の中央で後ろを向いたまま立ち止まっていた。急ごしらえの笑顔で向き直ると、両親のさほど心配していなさそうな顔があった。
「えっと、今朝スキー板を借りるときにお話をした人の、お友達が」
「それってさっき声かけてた人?」
「……はい」
 娘が答えたときには既に、両親はさりげなく腕を絡めて歩き出していた。
 こうなると後ろを気にしている場合ではなかった。まりあは早足で両親の背後まで追いつき、一緒にエレベーターホールへ向かった。
 とはいえ、ついさっき目にしたものをすぐには忘れられない。
(きっと目の錯覚です。皆さんが同じ柄の浴衣を着ていましたし)
 心の中で仮説を見つけて納得しながら進むうち、彼女は誰かのスリッパ履きの足を踏んでしまった。それからは歩き続けながら足下にも目をやった。
 すぐ手前を二足のスリッパが並んで歩いている。両親の歩調はぴたりと合っていた。
(考えてみると、なんだか不思議です。年齢も性別も関係なく同じものを着て、同じものを履いて、同じものを楽しんで……)
 視界の左右を同じ色のスリッパが通り過ぎていく。たまに違う靴や子供用のサンダルとすれ違う。そしていつからか、同じスリッパの一組が真横に並んで歩いていた。
 何気なく顔を上げたまりあの隣に、サイガの姿があった。
 精悍な顔が彼女を見下ろしていた。
『……やっぱりお前には見えてんのか』
「はい?」
『頼みがある。ちょっと顔貸せ』
 そう言うなり彼は羽織の袖を翻し、往来の中に紛れてしまった。
 ちょうど進行方向にエレベーターホールを指す案内板が現れたところだった。まりあは看板を見上げ、両親の後ろ頭を見つめ、それから回れ右をした。
「お母さん、お父さん、先に戻っていてください。急用ができました」