[ Chapter15「Remember It」 - A ]

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 行く年の最後の夜を、ウィルは柳家のリビングで過ごしていた。
 夕食の時間は既に終わった。店屋物のそばの器を黙々と片付ける彼の背後では、三人の女の笑い声が息の合ったハーモニーを奏でている。彼女たちはいずれも柳内科医院に勤める看護師で、「一人で年越しなんて寂しい」を合い言葉に院長宅へ集まっていた。
 しかしここに院長はいない。この家の主とその一人息子は二日前から旅行中なのだ。
「院長と重孝くん、今頃何をしているでしょうね」
「電話かけてみる?」
「ダメですよー、家族の時間は邪魔しないって決めたじゃないですかー」
 三人は夕方にこの家を訪れてから、ほとんど同じようなやりとりを既に何度も繰り返している。食事の際に酒が入ってから頻度は減ったが、時には給仕役に徹する居候をも話に巻き込もうとするようになった。
 ウィルには三人の言動が全く理解できなかった。彼女たちが視聴しているテレビ番組についても同様だった。雇用主の様子を本当はどこまで気にかけているのか見当もつかず、大笑いの連鎖反応にもついていけない。
(院長が言っていた「年越しを楽しむ」とは、本当にこんなことなのか?)
 しばらく前、院長はその日の仕事――もちろん居候として請けた雑務の方――を終えたウィルを呼び出し、一枚の日本地図を広げて見せた。そして現在地の大雑把な位置を示してから指を左側へ滑らせ、彼が初めて目にする地名を指した。
 とある群島の端に連なる、印刷上では小さな点でしかない島を、院長は指先で囲うようになぞった。
『前にちょっと話したかもしれないけど、今ここで私の夫が働いているのね。それで、最近は重ちゃんも調子いいし、今度の年末年始に二人で遊びに行こうと思ってるんだけど』
 夫婦共に直接会いたいとの意思はあるものの、冬が来るたびに息子が寝込むため、片道に二日かかるという長旅は毎年夢に終わっていたという。一方、夫が離島を出て一時帰宅する形での再会にも、いくつかのリスクと心配事が伴うらしい。
 だが今年は状況が違った。木枯らしが吹く頃になっても重孝が倒れなかったため、院長に意見を求められた別の医師が旅行可能との判断を下したのだ。
 そんな幸運に気をよくしていたのか、院長はこう続けた。
『一緒に行かない? あなたももう家族の一員だし、夫ともきっと仲良くなれると思うの』
 ウィルは悩むポーズを取った上で、教官に報告を送り、それから院長に辞退を申し出た。
 家族といっても部屋を間借りしているに過ぎない同居人の顔で。
 目的を持ってこの地に降り立ったという本来の事情を隠して。
『そうだ。一人きりで過ごすのも寂しいでしょう。みんなに声を掛けておくから、年越しくらいは肩の力を抜いていっぱい楽しみなさい』
 こうして彼が柳医院の留守を預かる一週間は始まった。
 前半は大掃除と称する作業のために連日診療所へ呼ばれ、看護師たちの指示の下、室内照明の交換や機材の運搬など力と背丈が必要な仕事を担った。気づけば彼女たちの食事まで用意させられていた。
 彼が肉体労働に従事している間、日記帳は沈黙を守っていた。窓の外の遠景に異変が割って入ることも、守護天使たちの姿を見かけることもなかった。
 大晦日の日中にはようやく自由な時間を手にしたウィルだったが、当初の使命もとい課題のために敵地へ出向く暇まではなかった。せめて訓練だけでもと日記帳の記録から小銃を取り出してみるも、それを構えた姿を三人に見られ、釈明に苦しむ羽目になった。
「ねー、ウィルくんもこっちおいでよー」
「一緒に飲もうよ。ほら、まだ冷蔵庫に入ってるでしょ、人数分持ってきて」
「それ自分が飲みたいだけ……何でもありません」
 この調子で本当に訓練への支障はないのか。ウィルは疑問と缶ビールを抱えたまま、誰かの殴り合いを流すテレビの前に座らされた。
 補習用に与えられた肉体はいくら酒を飲んでも酔わない、という気づきが年内最後の報告になった。

 遠くの鐘の音を窓越しに聞き。
 わけもわからずカウントダウンに付き合わされ。
 人々が口を揃えて特別と言う、彼にとっては全くそうでないただの一瞬を、迎えた。

 来る年の最初の朝を、ウィルは柳家の屋上で迎えていた。
 深夜まではしゃいでいた看護師たちは揃って深い眠りについてしまった。三人をリビングに残して屋上の物干し場に出た彼を、冷え切った空気が包んだ。
 夜の片隅を静かにめくり上げるように空の色が変わり始めた。
 何かが違う、とウィルは呟いていた。それから自分が別の日の光景と目の前の一瞬を重ねかけたことに気づいた。晩夏のある日の朝焼けは、彼が物質界の見学に来たとき最初に出会った景色のひとつだった。
(違っていて当然だ。「あのとき」は決して二度と巡らない)
 風を切る音が耳をかすめた。
 羽ばたきの気配を髪で感じ取ったウィルがその方角を向いたとき、屋上を囲む手すりの上に、一羽の大柄なカラスが降り立っていた。
『やァ。そんなしけた面で初日の出を拝もうとする奴は初めて見た』
 カラスがくちばしを開くと同時に、軽快な調子のダミ声がウィルに語りかけてきた。
「ただ外の様子を見ていただけだ」
『分かっていますって。今のは言葉の綾っていう奴だ』
 声に合わせてカラスが首を振った。
 ウィルは関心を失った顔で東の空に視線を移した。
『ありャ、お兄さん驚かないね』
「あんたの視線には以前から気づいていた。送電線や木の上から俺を見ていただろう」
 風が止んだ。
『よくお気づきで』
 カラスには悪びれるそぶりがない。急に真下を向いて羽繕いを始めながら、
『すごいところからおいでなすったのは知っていたけど、まさかこんなひよっこにまで見抜かれるとはねェ。いやァ参った参った』
 あっさりと負けを認めた。とはいえ聞き方次第で挑発の一環ともとれるのは、悔しさがいっぺんも見受けられないからか。
 勝ちを譲られたウィルは一言も返さなかった。
 空の端が白く熱せられ、遠い街の輪郭を浮かび上がらせる。
『何も訊かないのかい』
「俺はあんたが“この土地のもの”だということを知っている。それで充分だ」
『よォく分かっているじゃないか、よそ者のお兄さん。そこまで言われてしまうと、むむ、分かりすぎてちっとも面白くない』
 くちばしの先端がウィルの片腕をかすめたが、彼は動じなかった。
 自らとその後ろ盾にとって妨げになるかどうか。それだけを尺度にするなら、敵対勢力に分類されないというだけで結論は得たも同然だった。そんなものにわざわざ構ってやる余地はなく、今のところ特別にそうする理由もない。
『よく言われない? つまらないとか、こっち向いてくれないとか』
 ウィルは口を横一文字に閉ざし、手すりから身を乗り出した。どうでもいい、と口にすることさえ避けたくて仕方がなかった。
 地平線の先で高まった熱があふれ、雲間を伝い広がっていく。
 東からの風が夜を剥がしていく。
 何も知らない朝日が昇る。
 しんと静まる丘陵地帯に一筋、二筋、矢を放つ。
 屋根の上で波打ち、四方から押し寄せる光を、一人と一羽はしばらく見つめていた。
 しばらくして太陽が空の端から離れた頃、カラスの足が手すりを打ち鳴らした。鋭い爪と金属の足場が深く反響する音を生んだ。
『なァ、お兄さん。いったい誰と戦っているんだい?』
 ウィルは唇を固く引き結んだ。
 その動作を見たカラスは、姿に見合う声でひと鳴きしてから、どこかへ飛び去ってしまった。
 羽音も気配もすっかり遠ざかってから、屋上の近くに住む野鳥たちが競うようにさえずり始めた。遠くで乗用車が発進し、その隣の家では目覚まし時計が騒ぎ出した。
 何の変哲もない冬の朝。その真ん中に、一人のよそ者が取り残されていた。