[ Chapter15「Remember It」 - D ]

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 サイガの三学期は違和感から始まった。
 年中やかましいあの沼田が、始業式の朝から誰ともほとんど話さず、借りてきた猫のように縮こまっていたのだ。しかもサイガには無言の会釈が一度会っただけで、その後は視線も合わさない。非常にわかりやすい形で避けられていた。
 異変は数日で収まり、ある廃墟にまつわる噂を周囲に吹き込んで回る姿は見られるようになった。ところが唯一サイガへは変わらずよそよそしい、というより気まずそうな態度のままだった。
「冬休みのアレだろうな。沼田なりの気遣いというか、口を滑らせないのに必死というか」
 ある日の登校中に池幡が言った。通学路の途中でサイガと合流し、一緒にいた沼田だけが逃げるように先へ行ってしまった後のことだ。
 池幡は沼田と小学校からのつきあいで、性格も今回の事情もよく知っている。少なくとも的外れではなさそうだと思いつつ、サイガは一歩先を確かめたくなった。
「でも何て言ったらああなるんだよ」
「この前の話蒸し返すなよって」
「そんだけ?」
「そのはずなんだけどな」
 住宅の間に校舎の屋上のフェンスが見えてきた。道の前方は学ランとセーラー服の背中に埋め尽くされている。その中に沼田はきっといない。
「まあ、お前は引き続き普通に過ごせばいいよ。実際何か悪いことしたわけでもないし。周りは沼田がお前をキレさせて気まずくなってると思ってるらしいから、一応目的は達成されてるし。ほら、中学入ったばっかりの頃にもあっただろ、同じようなこと」
「ってことは、みんな面白がって放っておいてるのか」
「そこは優しくしてるって言ってあげなよ」
「そういうことにしとくか。……おっと」
 歩道に敷かれたブロックが薄い氷に覆われていた。サイガは滑らせた片足を大きく前に踏み出し、格好悪い事態をぎりぎりのところで回避した。何事もなかった顔を装い、勝手に冷えていく体幹をなだめながら進む先に、季花高校の正門が姿を現した。
 正門に近づくと見慣れたスキンヘッドがすぐ目についた。登校する生徒たちを監視する小森谷先生は、太い腕を胸板の前で組み、半袖Tシャツの下に重ね着の気配を全く見せない。制服の下にあれこれ着込む生徒たちとは対照的だった。
「先生おはよーございまーす」
「おう、おはよう」
 女子生徒の集団が挨拶して先生が応じる間に、サイガと池幡は足早に門をくぐった。他人を盾にして直接対決を避けた格好だが、それを非難するような声は飛んでこなかった。
(おとなしい沼田は気色悪いだけで済んだけど、殺し屋が静かだとなんか不気味だな……何か裏がありそうで)
「そういやサイガ、あれから雨宮とは話した?」
 池幡が校庭の先にある昇降口を眺めながら言った。
 突然全く違う名前を出され、サイガは何の話かすぐに察せなかった。理解したらしたで、答えを一言しか持っていなかった。
「別に何も」
「は? ……まさかお前、礼も言ってないのか。命の恩人だぞ、バカか」
 後半は耳元で声を潜めて叱られた。さすがにサイガも意味するところは掴めている。
 旅行中の事件について本人が詳細を聞かされたのは、意識が回復しまともに話せるようになってからだった。たまたま同じホテルに滞在していた同級生が行方不明騒ぎを知り、一緒に探してくれたという。それだけでも頭を下げるべきところだろう。
 しかし三学期に入ってから、お手柄の同級生とは挨拶さえしていない。すれ違うことはあったが、何故か相手の方が恥ずかしそうに目をそらし、足早に去っていくのだ。
「別に忘れてたわけじゃないけど……」
「けど?」
(もしかしてあのとき……見た、のか?)
 サイガは一瞬だけ己の股間に視線を落とし、池幡には再度「別に」と返してから、校庭を横断するルートの残りを急ぎ足で突っ切った。
 昇降口まであと少し。これ以上寒い記憶を思い出したくない。
 一年三組の靴箱のあたりには先客がいるようだった。

「「あっ」」

 昇降口に現れた後続の顔を見るなり、まりあは焦りに足を取られて転びかけた。靴を履き替えた後で良かったと思いつつ、すぐに靴箱を離れ、教室へ向かって階段を気持ち早足で上り始めた。
 顔中に広がる感覚が本物なら、きっと今は耳まで真っ赤に染まっているのだろう。
(どうしてなのでしょう。こんなつもりでは、なかったのに)
 二階の廊下に着いたまりあは往来を避けて壁際に寄り、ゆっくりと深呼吸をした。胸の奥がせわしなく脈打つ感触が続いている。
 改めて自身に問うまでもなく答えは出ていた。あの同級生の顔を見るたび、冬休みを後味悪く締めくくった事件を、その当夜に起きた不思議な出来事を思い出してしまうのだ。特に後者は人に話すこともできず、まりあの心だけを細かくつつき続けていた。
「まりあちゃんおっはよー……あれ、具合悪いの?」
 元気よく弾む声が呼びかけてきた。顔を上げたまりあの前に、レモンイエローのマフラーを巻いた人物が現れた。
「おはようございます、堀内さん。私は大丈夫です、もう落ち着いて、ふわっ」
 まりあが弁明を終える前に、その背中を依子に押されていた。
「じゃあさっさと教室行こう。ずっと廊下なんてフツー風邪引くって」
 そのまま押し出されるように一年三組の教室へ入ると、他の友達とすぐに目が合った。
「おはよう。今日も寒いね」
「あ、おはようございます。……あの、堀内さん、もうそろそろ」
「顔にあんまり大丈夫じゃないって書いてある。体育ヤバそうなら早めに言ってよね」
 依子は二人の机が並ぶ教室後方で手を離してくれた。途中から迷惑そうな口ぶりになったが、まりあはそれが本心の表れではないとすぐに気づいた。
 しかし、友達の優しさにほっとする時間はあっけなく打ち切られた。
「ウワサをすれば、まりあたん発見〜」
「依子おはよう。ねぇねぇ、このニュース知ってるぅ?」
 いつものように依子の机を囲んでいた女子生徒たちが机の主を招き入れながら、誰かの携帯電話をこぞって指で示した。
 話題を掴むなり渋い顔をした依子に続き、まりあも携帯電話の画面を見せられた。色つきの文字を読み解くまでに数秒。その続きは頭に入ってこなかった。
「知らないけど。何なのコレ?」
「この前スキー場のホテルで起きた事件。始業式の日にまりあたんが旅行の話してたでしょ、そのとき言ってた場所検索したら出てきたの」
 携帯電話の持ち主が依子に説明する間に、ようやくまりあの理解も追いついた。そして緊張が緩んだ。
「行ってきた時期も一緒だし、まさかと思って。ね、ケーサツ来た? 話聞かれた?」
「えっと……ここに書いてあるようなことは、一切なかったです」
 まりあは机を囲む友達全員にはっきり聞こえるように言い切った。
 それは密かに覚悟していた、起きた出来事を隠し偽ることより、ずっと楽に話せた。何しろ「露天風呂の屋根伝いに女湯を覗こうとしたけしからん男」などという存在は、実際に今の今まで聞いたことがなかったのだから。
「じゃあデマなんじゃないの。はい終了。それより昨日、バス停前のコンビニ見た?」
「そっかー、デマかー」
 依子の一声で結論がまとまり、話を持ち込んだ友達はあっさりと携帯電話を引っ込めた。
 その間にまりあは好奇心の輪から脱出し、自分の机に通学鞄を置いた。そして一息ついてから授業の支度を始めた。
 しかし、黒板横の時間割を見ようとするたび、思考が止まりかけた。
(西原くん……)
 隣の列の前から二番目、今は赤銅色にしている頭を見るたび、彼女は思いを巡らせる。
 不届き者の話よりよほど恐ろしい事件と、それ以上に信じられない出来事について、どう言えば突き放されずに聞いてもらえるだろうかと。
 そして何度か悩んだ末、ようやく一つの事実に気づいた。
(私、本当は、聞きたくて仕方がないのですね。あの人にこそ、事件があった日のことを。何か一つでも私のことを覚えていないのかを)
 ひとたび言葉にまとめてしまうと、頬をこわばらせる緊張も視線を合わせられない戸惑いも、途端に弱まっていった。決して満足したわけではないが、曇り続きだった空に晴れ間を見つけたような気分だった。