[ Chapter15「Remember It」 - G ]

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 誤認逮捕をかろうじて免れた翌日。
 ウィルが物音に気づいて目を覚ましたとき、厚いカーテンの隙間に夜明けが訪れた気配はなかった。
 音の正体は窓ガラスを外から叩く手だった。ウィルがそう悟ったのはカーテンの端に手を掛ける前。五感に含まれない感覚が突然の来訪者の正体を看破してしまった。
「おはよう。突然起こしてしまってすまない」
 地域の守護天使たちのリーダーは窓越しにウィルへ手を振った。かと思えば次の瞬間、彼は窓ガラスの存在を無視して身を乗り出し、流れるような動作で部屋へ入ってきた。
 渡り鳥を思わせる堅牢な翼が、照明の消された室内を朝のように照らした。
「君の教官から昨日のことで連絡があった。内容を聞いたらいても立ってもいられなくなったよ」
 ウィルに思い当たる節は一つしかない。まばゆい姿から視線を逃がすように、重孝の学習机の方を見た。日記帳はいつも通りそこに置かれていた。
「見てもいいかな」
「どうぞ」
 断ることなど考えられなかった。
 リーダーがウィルから日記帳を受け取ると、ひとりでに表紙が動き、中もめくられた先に羽根を挟んだページが現れた。
 そこは銀色の美しい筆跡ではなく、ありふれたボールペンの黒い文字に埋め尽くされていた。ウィルが誰かに差し出して書かせたものではない。あの女刑事の顔にページを押し当てた後、まさにその位置に、いつの間にか現れていた。
 一見すると奇怪な模様にも見えるが日本語の文章であるらしい。院長が買い物を頼むときのメモ書きや重孝のしたためた年賀状とはあまりに違う、癖の強い書き方だった。しかも途中には四角い絵、あるいは落書きのようなものも挟まれていた。
「素晴らしい。聞いていた以上に貴重な資料だ」
 リーダーは上着の内側から四角いレンズのようなものを取り出し、問題のページにかざして隅々までなぞるように動かした。しばらく様々な角度からの観察を試みると、ついでのようにウィルの顔へレンズを向け、それから日記帳を返してくれた。
 手元に戻った日記帳を読み返してみても、ウィルには何が先輩をここまで舞い上がらせたのか、見当もつかなかった。
「これで我々の大きな仕事の一つがようやく進展する。君の働きとしては一番の大手柄だと言っても過言ではない」
 両手を広げて褒めるリーダーにウィルは思わず「これのどこが」と返しかけた。寸前で思いとどまったが心情は見抜かれたようで、リーダーは笑いをこらえながら教えてくれた。
「これは君が出会ったという警察官の記憶が転写され、記録という形になったものだ。日記帳という媒体を通したから普段書き慣れている文章として再現されている。彼女は仕事熱心なのかな、日記と言うよりは供述調書の体になっていたけれど」
 ウィルは改めて黒い文章の冒頭に目を通した。あの女刑事が真剣な顔でペンを取る姿を思い浮かべると、字体から感じられる自己主張の強さと確かに近しいものがあった。
「供述内容は昨日の君が疑われていた通り魔事件について。殴られた被害者が揃って当時の記憶をなくしているという、あの不可解な事件だ」
 昨年秋から初冬にかけ、黄昏時に人が殴り倒された傷害事件。
 手口や犯行時刻から同一犯と目されながら、物証も証言も乏しく捜査が難航した案件。
 中でも大きな謎とされたのが、被害者たちの記憶の欠落、そして彼らの間にこれといった接点や共通項がないことだった。警察は一連の事件が通行人を無差別に狙ったものと判断し、地域のパトロールを強化して周辺住民の不安を鎮めることにした。しかし。
「彼女は事件を追ううち、組織の見解に疑問を抱き、被害者たちの背景を調べ直していた。そして彼らの隠れた『興味』にたどり着いた。この記述の下に並ぶ画像がそれだね。《悪趣味な個人サイト》という記述が読めるかな」
「……読めませんでした」
 リーダーが指した文章にウィルが正直な感想を述べると、抑えた笑いが返ってきた。
 落書きの正体はウェブサイトと掲示板のスクリーンショットだという。白黒で大まかな形が分かる程度の粗い画像は、文章と違い鮮明な記憶として引き出せなかった結果らしい。
 よく見ると文章の方でも掲示板上のやりとりがいくつか引用されていた。日常に疲れた人々が過激で暴力的な画像(コンテンツ)を求めて集まり、誰かが持ち込む映像を共有して楽しんでいたという。
「当然、彼女はその映像を見た。内容は記されていないが、どうやら彼女の正義感に火をつけるものだったようだ。……このくだりこそが、我々にとっては重要な部分なのさ」
「寝る間も惜しんで独自捜査に没頭したという話が?」
「いいや、その前。一本の動画を通じて感想を共有していたという話がある」
 リーダーは画像から数行分だけ下に指先を移した。
「実を言うと、我々は以前からこの事件を調べていた。不特定多数の人間から特定の記憶だけを奪い取るなどという芸当は、まず人間には不可能だからね。そう、普通の人間には」
「……“こちら側”が手を貸してやればそんなこともできる、と」
「その通り。物質界の内にとらわれなければいくらでも抜け道は作れる。故に我々の出番というわけだ。しかも今このニュータウンの中には、記憶への干渉を得意とする輩が潜んでいる。君もよく知っているだろう、サリエルの名と賜物を持ち去ったあの裏切り者だ」
 その名こそ補習の発端だった。知っているどころか直接の被害者と言ってもいい。
 だからウィルはすぐにうなずいたが、顔を上げるや言葉を失った。
 大先輩の目が、翼が、地平線を乗り越えようとする朝日のように輝いている。
「人質がいるから慎重に対応しろと指示されているが、無関係な人間にまで危害を加えたとなれば話は別。そこで調査に乗り出したというわけだ。……ああ、すまない。君を恐れさせるつもりはなかった」
 相づちも打てないウィルに気づいたリーダーは、光と語気の強さを少しずつ落とした。
「とにかく、我々は昼夜を問わず情報を集め、事件が発生する条件を突き止めた。そして犯行の一部始終を捉えることに成功した。そうだ、確かその現場には君もいたと聞いている」
「まさか、病魔を追っていた、あのときか」
 これまでにウィルが堕天使サリエルと直接対面した経験は数えるほどしかない。
 さらに守護天使も居合わせていたとなれば、当てはまる事例はたった一つ。因縁の相手をあっさり取り逃がした後、ひなぎくと初めて出会った、十一月の夜の出来事だ。
「その通り、とはいえ事件自体は君が来る前に終わっていたが。実に不可解な手口だった。……結論から言おう。あれは普通の人間が異端の存在を襲う事件だった。一人の拳に沈められた『被害者』たちは皆、落伍者の手駒を狙い返り討ちに遭った『加害者』だったのさ」
「敵を倒しに行った者が、倒された。そして記憶を消された」
「記憶消去は恐らく奴の存在を、あるいは『真の被害者』の存在を人間から隠すためだろう。だがそうされたことで我々は犯行の動機、特に人間たちをどうやって刺客に仕立てたかを掴めなかった。……それを解明する手がかりが、この供述調書にある」
 ウィルは説明を聞きながら、日記帳のページを埋める独白を何往復も眺めた。画像の直前から次のページにまたがる一つの段落は、他の箇所より文字の震えが強いように見えた。
「人間と直に接触せず、道具を用いて暗示を掛け、特定の人物に出会ったら襲いたくなる衝動を刷り込む。その道具がここに書かれた動画なら、それを解析すれば主犯の正体が分かるはずだ。それが落伍者の自作自演だとしても、別の敵対勢力によるものだとしても」
「我々は容赦しない」
 ウィルが次の一言を予測して呟くと、リーダーの翼の輝きが収まった。
 カーテンの隙間から本物の朝焼けの光が部屋に忍び込んでいた。
「さて、理解してもらえたかな。君の働きは間違いなく評価に値する。今度ばかりは誰も異論を唱えないだろう」
 新年会で顔を合わせた様々な守護天使の姿が、ウィルの目の奥に浮かんでは消えた。
 彼らがここに同席していたらどんな表情で話を聞いていただろうか。
「君の補習の成績に直接口を出すことはできないが、今後のことで口添えするには十分な材料だ。なんなら、あの裏切り者の討伐に君を連れて行くことも可能になるかもしれない」
 まぶたの裏に追いやられた暗闇の中に、怒り狂う病魔の影を見た気がした。
 黄昏を駆け抜ける仮面の男にも見えた。
 届かない深みへと伸ばす手にも見えた。
 どこかでカラスが一声鳴いた。
「その必要はありません」
 ウィルは目の前の輝きを直視せずに答えた。
 想定外の返答だったようで、リーダーはわずかに顔をしかめた。気分を害したと言うよりは不思議に思った様子で、その目は言葉の続きを静かに待っていた。
「俺がここに来たのはあいつを倒すためではない。人間を救えなかったという失敗に学び、与えられた役目を全うするという基本姿勢を学び直すため。基本がなっていない未熟な訓練生を連れて行っても足手まといになるだけ。違いますか」
「……ふむ。言いそうな者は、いるだろうね」
 堅牢な翼の輝きを照り返していた日記帳が、音も立てずに閉じられた。
 ウィルはそれを一度は小脇に抱えたが、しばらくしてベッドの上に放り投げた。
「もし責任者として報いなければ示しがつかないというなら、知識をください。教えてほしいことがあります」
「なるほど。その知識とは?」
「俺たちのような存在に人生を狂わされた人間を救う方法」
 朝の日差しが未熟な天使の足元に届いた。
 風は吹いていなかった。