[ Chapter16「嗤う幻影(ファントム)」 - D ]

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 雨宮まりあとの待ち合わせ場所に向かう途中、サイガは何のはずみか、小学校に入って間もない頃の出来事を思い出していた。
 初めての授業参観。緊張したか張り切ったかは分からない。
 友達の母親が、自分の父を自称するあの男と親しげに話している。しかもまんざらでもなさそうに笑っている。そんな場面を見た衝撃で他の全てを忘れてしまった。
(母さんはいなかった……可能性あるな。菜摘が上の階にいたし。だとしたらあいつは)
 当時の自分がどうしたかも忘れてしまったが、嫌な気分にはなっていただろう。
 成長した今だからこそ読み解けることもある。想像できることもある。
(俺たち姉弟のことは多分どうでもよかった。母さんと二手に分かれて観に行くって理由でついてきて、本当は最初からナンパ目当てだった。……やっぱり最低な奴だ)
 そうして当人を殴りたい気分が高まってきたところで駅前に着き、まず目についたのが、少女に言い寄る男の姿だった。一方の顔を判別した途端に怒りが膨れ上がり、気づくと駆け出していた。
 赤の他人だと承知の上で全力の威嚇を顔に表したら、見知らぬ中年男は面白いほど怖がってその場に固まった。失禁したかもしれない。不良少年扱いされがちな装いもたまには役立つと、サイガは改めて思い知った。
 助け出した級友にまでおびえられてしまったのは計算外だったが。
「ご注文はお決まりでしょうか」
「ホットコーヒー。……おい、聞こえてるか」
「あ、す、すみません。ミルクティーをお願いします」
「ホットとアイス、どちらになさいますか」
「ええと、ホットで」
 サイガは目についた近くのファミリーレストランへまりあを連れて行った。だがテーブル席に通されてからも、店員と話した後も、彼女の表情は曇ったままだった。
 それは先ほどの怖い顔のせいか。
 実はこの対面に乗り気ではなかったのか。
 ちゃんとついてきてくれただけマシという状況ではあったが、どのみち会話しなければ何も進まない。
「雨宮。さっきのことはいったん忘れろ」
「……はい」
 返答する口元はやはりこわばっていた。
 棚に上げられていないと察しつつ、サイガは駅前でのことを蒸し返さないと決めた。今はもっと大事なことがある。店員が再び来るまでの時間を使って考えを整理し、二人分の飲み物が揃ってから、背筋を伸ばした。
 まりあも緊張の残る顔で正面を向いた。
「話があるって、聞いてるよな。この前のことで」
「はい。あの日のことは覚えています。でも……」
「雨宮」
 サイガは腰を浮かした。
 テーブルの裏に大腿四頭筋を打ちつける手前で止め、半端に立ち上がりかけた姿勢を数秒キープしてから、上半身を前に倒した。そして。
「変なことに巻き込んで、本当に申し訳なかった」
 テーブルの表に額がつく寸前まで頭を下げた。
「俺のこと探して、見つけてくれたのには感謝してる。でもそのせいでお前んちの旅行が中止になったって聞いた。せっかくまともで仲いい家族がいるのに」
「あの、顔を上げてください」
 こわばった肩に温かい手が触れた。
 柔らかい感触と共に押し戻されたサイガは、自然に顔を上げていた。
 まだ視線は上げられない。
「あの件のせいでいろいろ嫌な思いさせてたなら本当にごめん。それに……見苦しいモノ見せたことも、悪かった。俺だって、まあ、わざとあんな格好したわけじゃなかったけど」
「えっ? ……何のお話ですか?」
 まりあは話の意図するところを少しも掴めていない様子だった。
 周囲の耳を気にした言い方だったから伝わらなかったのか。サイガはもっとストレートに言ってしまおうかと口を開きかけて、思いとどまった。
 相手は女子だ。それも下半身の話に疎いタイプとしか思えない。
「あー、要するに。お前が俺のこと見つけてくれたとき、俺、服着てなかっただろ?」
 店先で電子音のチャイムが鳴った。
 重い空気を貫いてむなしく響いた。
「……あ。えっと、それは、ですね」
 サイガが思いついた中で最大限の遠回しな表現を、まりあはたっぷり数十秒かけてようやく理解したらしい。彼女が口をぱくぱく動かす間に、その頬ばかりか顔全体、耳までもが真っ赤に染まってしまった。
 かえって変なことを考えさせてしまった。失策を悟ったサイガは多少の罪悪感を胸に、「悪かった」と再び頭を下げ、それから元通りに座って正面を向いた。
「そ、そういう意味でしたら、大丈夫です」
 今度はまりあが目を伏せていた。しかしサイガと違い、なんとか前を見ようとする努力が視線のせわしない動きに表れていた。
「私は、見ていませんから」
「は?」
「西原くんが考えたような意味では、ですよ。……あのとき、窓から見つけたのは、本当です。でも、身を乗り出してやっと見えるほど遠かったですし、夜ですから暗かったですし」
 サイガは救助後に聞かされた話のいくつかを思い出した。詳細まで覚えきっているわけではないが、今のところ矛盾のようなものは感じなかった。
 でも、何かが引っかかる。
「窓の外を見たとき、最初は向こうのひさしの上に何かが乗っている、くらいに見えていました。人が倒れているとわかったのも、たまたま上の階が明るくて外まで照らされていたからでしたし。身元を確認できたのは救助された後でしたし」
 だから大丈夫です、とやたら強調された。顔のほてりはすっかり引いていた。
 彼女の変化を見て取ったサイガは、安心して罪の意識をひとつ手放した。それからコーヒーカップに手を伸ばし、その黒い鏡のような表面を見たとき、別の疑問がひとつ浮かんだ。
「そういやお前、なんでわざわざ窓開けて外なんか見たんだよ。クソ寒いに決まってんのに」
 まりあの顔から「大丈夫」の色が消えた。
 さまよう視線は適切な言葉を探すというより、適切な言い訳を探すようだった。今さっきの誤解よりも長い沈黙の後、彼女はどこか寂しそうに笑った。
「窓を開けたのは、お庭を見るためです」
「庭?」
 サイガは記憶をたぐり寄せ、風景より先に証言を思い出した。露天風呂から見渡せる庭園。彼の携帯電話を警察が発見した場所だった。
「はい。建物内は皆さんが手分けして探していましたが、外は誰も見ていないようでしたので。でも夜ですから、ガラス越しだと中の明かりが反射してよく見えなくて。それで思い切って窓を開けました」
 丁寧な説明の端々に、何かを言いよどむ一瞬が混ざっていた。
 全くの嘘ではないような気はする。
 肝心なポイントを避けて通られているような。
 まさかここまで来て、怖くて言い出せないなんてことは。
「……あの、西原くん。ひとつ質問してもよろしいでしょうか」
「いいけど。何?」
「沼田くんから、あなたが停電の後に起きたことを覚えていないとうかがいました。本当でしょうか」
 答えを待つ目が心なしか潤んでいる。
 背負いきれない不安を抱えているような。
 結果は既に明らかで、しかし何かを期待しているなんてことは。
「本当だよ、一応。悔しいけど犯人の顔も手口も覚えてない。……でもさ、雨宮、お前が知ってることは本当にそれだけか?」
 返答に落胆するまりあに、サイガはすかさず別の切り口を突きつけた。
「お前が人をかついで笑うようなタイプじゃねえのは、教室で見かける程度の俺でも分かる。そのお前が今、何かごまかそうとしてる気がする。俺にはそう見えたけど」
 テーブルが震えた。
 級友の肩が跳ねた。
「さっき俺から聞いたときもそうだった。なんか、こう、言いたくても言えないことっていうか、隠してること。あるんだろ?」
 まばたきさえ止まってしまった彼女に、サイガはできるだけ優しく問いかけた。
 やがてまりあは深く息を吐き、目を閉じて縮こまると、ぽつりと答えた。
「……聞いても、笑わないでくださいね」