[ Chapter16「嗤う幻影(ファントム)」 - G ]

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 月に二度も救急車に乗せられてしまったサイガだったが、幸い脳や骨などに異常はなく、今回はその日のうちに帰宅を許された。警察に呼び出されることもなかった。
 しかしそれはあくまで「入院するほどではない」怪我だったという判断に過ぎない。事故の翌日、つまり週明けからサイガは頭に包帯を巻いた姿で登校する羽目になったし、肩や背中には痛々しい擦り傷が残っていた。
「お前、今度はケンカでもしたの?」
「スノボ行ったときは雪に埋もれて霜焼けになって、年末は酔っ払いに腕掴まれたんだっけ。不幸って続くもんだなあ」
 校外の温水プールに移動しての部活動が始まる前、制服から水着へ着替えた一年生部員たちが、見学席のサイガを見ては冷やかしや哀れみを寄せた。彼らは余計な詮索をしない代わり、怪我人の荷物を持ってやる親切もしない。当人もそれに文句をつけなかった。
「昔からネタの尽きない奴だなとは思ってたけど、ここまで来ると気の持ちようでもカバーできないよな。いっぺんお祓いでもしてもらった方がいいんじゃないか」
「お祓いかー……」
 気の抜けた声で復唱しながら、サイガは想像を巡らせてみた。
 悪いものにつきまとわれている。昨日の事故現場で見たものがまさにそれらしい雰囲気をまとっていた。しかるべき手順を踏めばいなくなってくれるのだろうか。
 さらに、もっとたちの悪い存在とも関わりがある。追い出せるなら是非そうしたい。
「……考えとく」
 軽い返事に真剣なリアクションが来ない。全てを冗談にできる空気が心地よかった。

 帰宅したサイガを出迎えた美由樹は一番に怪我の具合を尋ねてきた。平気そうに振る舞いながら痛みをこらえる息子をずっと心配していたらしい。
 しかし祖父母ともう一人を加えた夕食の席でその話は出なかった。山盛りの肉野菜炒めを黙々と口に運んでいた長男に、母親はこんな話を持ち出した。
「そういえば、昨日のあの子は学校に来てたの?」
「は? ……普通に来てたけど」
 サイガは最低限の答えだけ返してから再び食事に専念した。
 見るからに痛い目に遭った彼自身と違い、巻き込まれた級友は無傷だったので生活への支障もないはずだ。教室の最後列で何かが起きたかどうかは知らない。分かるのは一つ、教室の入口付近ですれ違ったとき、目をそらされたが逃げ出されはしなかったことだった。
 彼女は確かに昨日の約束を守っていた。
 しかし約束のことを知らない母親が気にかけるのは、もっと違う顔だった。
「あの子、あなたが病院で検査受けてるとき、一緒に待っててくれたんだけど」
「それ昨日も聞いた」
「あなたのことずっと心配して、私がしっかりしてたらこんなことにならなかったのに、って、ずっと泣いてたのよ」
「え」
 主菜を噛み砕く口の動きが止まった。
「目が腫れてなかった?」
 言われてからその姿を思い返してみても、顔がはっきりと浮かばない。
 実はろくに見てもいなかったのかもしれない。
 たいした怪我でもないのに泣き叫ばれる意味が分からない、とサイガは思うものの、家族たちの視線を跳ね返すコメントには変えられなかった。
「……でも、学校に来てたなら、よかった」
 美由樹のつぶやきを最後に会話は途絶えた。
 それからしばらく雑談の種が現れず、夕食は静かに進んだ。挟まる声と言えば白飯のおかわりを求めた祖父とそれに応じる祖母のやりとりぐらいだった。
 サイガも便乗して空の茶碗を託してしまおうとしたが、祖母を呼ぶ前に桂と目が合ってしまった。兄をさげすむ目で見つめてくる理由を酌み取れない。それでも当初は茶碗を持ったままでいたが、やがて視線に耐えられなくなってそっと手を引っ込めた。
 すると、兄弟の攻防を見ていたらしい祖父が問いかけた。
「そういえば、今日、部活はなかったのかい」
「あったよ。行ったよ見学だけど」
 答えたサイガの舌に苦い味がにじんだ。練習に励む仲間を見ているしかできない悔しさが彼の表情を染め上げると、あっさりした感想が返ってきた。
「本当に泳ぐのが好きなんだな」
「当たり前だろ」
 考えることなく答えてから、サイガはふと、弟に語りかける母の横顔に目を留めた。
 思い出の引き出しが開く音がした。
 ずっと求めていたものを探り当てた気がした。
「母さん」
「どうしたの」
「俺が水泳始めたときのことって覚えてる?」
「サイガが……?」
 突然の質問を不思議がった美由樹はすぐに顔をほころばせた。
「もちろん覚えてる。ちょうど今の桂ちゃんぐらいの頃だったわね」
 それは小学校に上がる前、夏を控えた雨の季節。母親に連れられて訪れたスイミングスクールの体験教室が、十年以上続くことになる競技歴の始まりだった。
 後に出会う友人たちの多くは親の意向で泳ぎを習い始めたという。しかし西原家の姉弟は休みのたびに違う場所へ連れて行かれるだけで、習い事は本人が望んでも断られるばかりだった。後にサイガはなりふり構わない懇願で入会を許可してもらったが、それは明確な動機があったからこその話だ。
「確か先生から素質あるって言われてその気になって。その後、何かの時にお父さんが全然泳げないって聞いて、あなた『勝った!』って顔してたのよ。懐かしい」
「そこはどうでもいいんだよ。……あの頃の母さんって結局、俺たちが何に興味持つか分かんないから、手当たり次第にいろんなとこ放り込んでたんだろ」
「えっ、その話あなたにしたことあった?」
「いつだったか、正月に親戚の誰かに言ってたのを偶然聞いた」
 美由樹は親の意図を隠したままでいたかったらしい。予想外の方向からの暴露に目を丸くした。そして、
「で、桂にはやらないの、それ」
 足された名前が母親のまぶたをさらに大きく開かせた。
 唐突に呼ばれた弟が何かを言いかけた。しかし祖父母の視線が向けられたことに気づくと、何も知らないとアピールするように大きく首をかしげた。
「ずーっと家に置いとくつもりなんだろ。だったら俺や菜摘にやったみたいに、いろんなとこ連れてって、いろんな世界を見せてやってもいいんじゃねえの」
「それは……昔みたいにはいかないでしょ、お父さんのこともあるし」
「そいつは母さんの寂しさを埋めるための人形じゃない」
 サイガは遠い病院に槍を投げるような勢いをつけて断言した。
 固まった美由樹の隣で、桂がまずいものでも食べたように唇を潰した。
「それに母さんはあいつの世話焼くために生きてるわけじゃない。しばらく手術ないんだろ、だったら少しほっといても死ななさそうだし、もしヤバくなっても病院がなんとかしてくれる。だからもうちょっと自分のために時間使えよ。桂の成長するとこ見たくねえのかよ」
 どこを切り取っても本心だった。
 サイガが先週からずっと考えてきたことだった。
 だから、ガーゼと包帯に守られた後頭部の傷跡が突然痛み出しても、言うと決めたことを止められなかった。
「今の桂は正直、大人受けする『良い子』にしか見えなくて、すっげえ気持ち悪い。母さんはどう思う。じいちゃんたちは。言うこと聞いて愛想のいい優等生だからかわいいのかよ。かわいそうに見えたから引き取ったのかよ。どうなんだ」
『他に言っておきたいことはあるか』
 重く唸る獣のような声がサイガの首筋を震わせた。
 共に食卓を囲む家族は誰も声に反応していない。突然の提言を受けて考え込んでいるようにも、ただ時を止めてしまったようにも見えた。
「桂。確か、心に空いた穴を埋めに来たんだったよな、お前」
 サイガは真剣な表情のまま、声量だけを絞って言った。
「どうせやるならまともな思い出で埋めてってくれ。母さんがなくしたのは子供が増えてたはずだっていう『事実』じゃない。成長を見守って、喜んで、時々困って、っていう感じの『時間』なんだろ」
『貴様も知ったような口をきくか』
「人間ってのは多分みんな、事実だけもらってもピンと来ないっつーか、自分の話だって気がしてこないんじゃねえか。薄っぺらい夢なんか見せたっていつかバレるし、記憶を強引にどっか閉じ込めたっていつかは思い出すんだ。お前、本当にそれでいいのか」
 返答はなかった。
 静けさの中に一人残されたサイガは茶碗を持って立ち上がった。祖母の傍らに置かれた炊飯器のふたを開けた瞬間、家族の時間が再び動き始めた。

 それからしばらくの間、サイガは雪山をさまよう夢に毎夜うなされた。
 どこまでが記憶の再現で、どこからがただの幻覚か、素人には見抜けなかった。しかし暗闇に潜む視線が誰の悪意かはすぐに察したので、どんなに苦しもうと音を上げることは決してなかった。