[ Chapter18「デッサン」 - A ]

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 短大生の長期休みは一般的に高校生のそれより少し長い。
 サイガにとっては当然のように知っている話だ。しかし知識として頭に入っていても、実例を目の前で見せつけられると、つい感情の方が言動に出てしまった。
「春休み入ったからって浮かれすぎ。旅行でも何でもさっさと行けよ、勉強の邪魔だ」
「ごめんねー、旅行は来週からなのよ。応援はしてあげるから期末試験頑張ってー」
「うっわクソ腹立つ」
 子供部屋の入口手前に立つ菜摘が、実にわざとらしくにやついた顔で弟を見下ろしている。ようやく二月が終わろうという頃に春満開のコーディネートで。
 サイガにしてみれば学校から帰宅して一休みし、ようやく試験対策の勉強をやる気になり、とりあえず教科書を広げたところに姉が乱入してきたのだ。言いたいことは数多くあった。
 しかし菜摘自身は弟をからかうために部屋を訪れたわけではないらしい。
「ところでサイガ、今度の日曜日は予定空けといてね」
「何だよ急に」
「急にも何も」
 菜摘は部屋に入らずその場でかがみ、畳の上にあぐらをかく弟に目線を合わせた。
「お母さんの誕生日。どうせ何もしなかったんでしょ」
「忘れてねえし、声もかけた。……多分」
 姉弟の母親の誕生日は二月後半、今年のそれは既に過ぎ去っている。昨年まで西原家の記念日や祝い事はほぼすべて菜摘が取り仕切っていたが、進学した彼女が実家を離れてからは母親が引き継いでいた。本人の分を除いて。
 サイガはというと、当日の朝食の席で話題に上るまで日付も忘れていた。そして話が終わってからは何かしようと考えることさえしなかった。
「そういうとこ。普段から迷惑かけまくってるんだし、こんなときぐらい挽回しようって思わないわけ?」
「説教とかマジいらねえからさっさと本題入れよ」
 姉の眉間にしわが一本増えた。
 深呼吸を挟み、彼女はさっきより落ち着いた声で話を一歩戻した。
「土曜日は部活あるんでしょ。来週からは私がいない。だから日曜日。家族全員が揃う日に、みんなでお母さんのお祝いして、『いつもありがとう』って言うの。どう?」
「みんなで」
「そう、みんなで。七人全員揃ったことないじゃない」
 やたらと強調された言葉をサイガはもう一度小さく復唱してから、その後に聞いた数字に疑問を抱き、教科書を手放した右手で指折り数えた。
「俺と菜摘、母さん、じいちゃんとばあちゃん」
「桂ちゃん」
「ああそうだった、あいつも入るのか。……六人だろ?」
 順に動かした指は折り返したところで止まった。
 少なくとも菜摘が実家に戻ってきてから、朝食を囲む顔ぶれはその六人だった。他に誰か加わるという話をサイガは一つも聞いていない。
 もう一度最初から数え直し、その手を姉の方に向けると、あきらめと落胆が混ざった目で見つめられた。
「あのね、サイガは嫌かもしれないけど、私はお父さんも数に入れてあげたいの。大事な家族なの」
「そういうことかよ……でもさ、入院中なんだろ」
「今お父さんがどういう状態か知ってる? お母さんが話してたこと少しでも言える?」
 虚を突く問いかけにサイガは的外れな答えすら浮かばなかった。
 菜摘は口をぱくぱく動かすばかりの弟をしばらく眺めてから、立ち上がって引き戸の縁にもたれた。そして彼女が母親から聞いた、また昨日に自分の目で確かめてきたという患者の現状を大まかに説明した。
 異国で起きたあの交通事故からもうすぐ半年。西原陽介はやけどの後遺症や皮膚移植手術の痕跡を山ほど背負いながらも、意識や言葉ははっきりしていて、見舞客を毎回驚かせるほど元気に振る舞っているという。運動機能のリハビリも既に始まっており、両足の関節は動いてくれないが手の方は順調らしい。
「それと、サイガが全然顔見せてくれないってすねてた」
「知るか」
 付け足された一言こそサイガにとって一番どうでもいい情報だった。
「で、そいつをどうするつもりなんだよ。歩けないんじゃ退院なんか絶対無理だろ」
「ええそうよ、当分は外出もなし。だから」
「だから」
「私たちがお父さんのところに行くしかないじゃない」
 ネイルシールで飾り立てた指先が示したのは適当な方角だったかもしれない。
 しかし姉が口にした提案を弟は、今度は正しく理解できてしまった。
「……まさか、病院で、やるのか。誕生日祝い」
「どうせ忘れてる話だと思うから言うけど、お父さんは今、VIP用の広〜い個室にひとりっきりなの。リハビリも全部そこでやってる。さすがにろうそくは使っちゃダメでしょうけど、ベッドの隣でケーキ囲むくらいなら何も言われないでしょ」
「お前マジで言ってんのかそれ」
 怒られる可能性など問題ではない。特別待遇(VIP)と聞いたときに若干の引っかかりを感じたが、それも今言う話ではないだろう。
 誕生日という立派な動機、母をねぎらうという大義名分、姉はそれらを振りかざして自分のプランに弟をも巻き込もうとしている。
 姉の言い分がたとえ本心でも、そのやり方は、ずるい。
「何がそんなに嫌なの?」弟の反発が菜摘の語調を強くする。「昔からお父さんのこと嫌いなのは知ってるけど、だからって」
「菜摘に分かるわけねえよ、ヤバい目に遭ったこと一回もないくせに!」
「いい加減に被害者面するのやめなさいよ! 事件に巻き込まれたりいじめられたりしてたのは私も覚えてる、でもそれ全部小学生のときの話でしょ!?」
「今もだよ!!」
 サイガは反射的に叫び、立ち上がった。「今」の意味を説明できないことに気づいたときには既に入り口まで詰め寄り、伸ばした手で菜摘の肩を掴みかけていた。
 過去の話をこんな形で蒸し返されたくなかったし、姉にも忘れていてほしかった。実際、あの交通事故がなければ、高校卒業までには気持ちの整理をつけて全部忘れているはずだったのだ。それなのに。
 本当に訴えたい本音は、何故か頭に浮かんだそばから溶けていく。
「畜生、とにかく、あいつの近くにいるとろくなことねえんだ! そんなに大事にしたいなら勝手にやってろ、でも俺を巻き込むな、代わりのことならいくらでもやってやるから!」
「あなた本当に何もわかってない、私が言いたいのはそういうことじゃなくて!」
"Stop! Stop!!"
 菜摘もサイガのシャツの衿を掴み返し、取っ組み合いが始まろうとしたまさにそのとき、二人の足下から別の声と小さな影が割って入った。
 姉弟がほとんど同時に動きを止め、それから自分たちの真下へと顔を向けた。
 二人の間に薄い壁が現れていた。よく見ると壁の正体は真新しい絵本で、真剣に困った表情をした桂が、それを細い左腕で懸命にかざしていたのだった。
「いったいどうしたの、二人とも」
 続けて台所から母親が顔を出した。子供部屋とは壁一枚を隔てた隣、しかも姉弟は半分廊下に出ていたから、言い争いになった時点で声だけは聞こえていたのかもしれない。
 先に顔を上げた菜摘が母親に訴えかけようとした。しかし言葉を発したのはサイガの方が早かった。
「別に。たいしたことじゃねえよ、せっかく勉強する気になってたのに菜摘が邪魔しに来たってだけで、いでで」
「何よその言い方」
 菜摘は弟の手の甲をつねってから、母親に背を向ける形でささやいた。
「お母さんたち帰ってきたときはだまし討ちみたいに連れて行ったから、今度はちゃんと予告してあげたのに。どうしても逃げたいなら代わりにいろいろ払ってもらうからね」
「どういう意味だよ。それじゃ結局……」
 同じく声を潜めたサイガの反発は、菜摘がその場を離れてしまったので空振りに終わった。じっと二人を見上げて会話を聞いていた桂は、絵本の裏表紙でサイガの腕を軽くはたいてから、菜摘が行ってしまった方へ走っていった。
 その場に残されたサイガが振り向くと、母親と目が合った。
「せっかく菜摘が帰ってきてるのに。もうちょっと仲良くできない?」
 自分だけが叱られる理不尽さに耐えつつ、サイガは話の中身について何も言われないことだけをつい願ってしまった。