[ Chapter18「デッサン」 - D ]

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「どこから話そうかなあ」
 この男はわざともったいぶっているのだろうか。
 目の前に居座る現実から、頭の奥を這いずり回る記憶から、サイガは目をそらす。
「あ、でも事故のことは、さすがに知ってるか」
「テレビなんかで言ってた話は知ってるけど、その辺は別にどうでもいい」
「そうかー」
 嘘は言っていない。
 家族の口や報道を通して聞いた話はだいたい忘れたが、その気になればいつでも調べ直せることだ。
 今、この場でサイガが知りたいのは、まだ誰も語っていないこと。
「その事故で死んだはずのお前がなんで生きてんだよ。あんな奴の手なんか借りて」
 ふざけた笑みが消えた顔は抽象画のようだった。
 しばらく呆然としていた陽介が、突然オーバーな動作をつけて首を振り、特大のため息をついてから答えた。動作の後半は意図的に行ったように見えた。
「約束があるんだ」
「約束?」
「そう。大事な友達との約束。それを果たすまで、どうしても死ぬわけにはいかない」
 サイガは復唱した言葉をもう一度だけ口の中で転がしてから、尋ねた。
「だから俺が代わりに死ねと」
「その節は本当にすいませんでした」
 すぐさま陽介が頭を下げた。
「いや本当にあれは軽率な言い方だった。お前から引き離された後であいつにこっぴどく叱られたよ。いろいろあって焦ってたし、契約のこともちゃんと理解できてなかった。今さらかもしれないけど」
「マジで今さらだ。っていうかあいつに言われるまで本気で俺を身代わりにするつもりだったな。いつもそうだった、母さんや菜摘には気を遣うくせに俺のことは」
「いや今回は断じて違う」
 顔を上げた陽介は恐らく立ち上がろうと、あるいはサイガにすがりつこうとした。
「今回は、ってことは今まで」
「違います、いでっ、ごめんなさい」
 患者が前のめりになった上半身を前へ押し出した瞬間、シーツをこすった手のひらが滑り、横を向いて転んだ。転落防止用のサイドレールに頭を打ちつける音がした。
 両足の関節が固まっている。触れたものは感じるが骨は少しも動かない。
 サイガは先日姉から聞いた話を思い出し、即座に意識の外へ放り投げた。この怪我人はベッドのすぐ前にいる自分まで手が届かない。それで充分だ。
「あいつが、サリエルが、最初からお前を指名した。何が気に入ったんだか、俺には教えてくれないけど。なんでも俺の魂には、俺を助けるって願いを叶えるほどの価値はないらしい」
 怪我人はふてくされたように横を向いたまま語る。
「お前を差し出すか、あのままくたばるか。二択だった。他の方法なんか考える暇もない。文字通りケツに火がついてるってときに、そんな難しいこと、考えてられるか?」
 心境を想像したくなかった。
 状況をイメージしきれなかった。
「火がついたまましゃべれるわけねえだろ、デタラメ言うな」
「それもそうなんだけど、いや、本当にそんな感じだったんだって。事故に遭ってから急に時間が止まったというか、超スローモーションになったというか。それからあいつが現れて、助かりたいかって聞いてきて」
 炎上する事故車両の映像はサイガの記憶にも残っていた。
 そこへ果敢に飛び込む黒ずくめの歩兵も思い浮かべてみたが、違和感が残った。
「答えはオフコース。きっとお前でもそう言ったと思う」
「言わねえし」
 サイガは一言だけ反論してから、唇を固く閉ざしてゆっくりとつばを飲んだ。
 実は今言われたカタカナ語の意味がすぐには浮かばなかった。遅れて湧いてくる気恥ずかしさが顔に出ないよう全力でこらえ、「それで」と話の続きを促した。
「それで? えーと……そうだ、俺が答えたらあいつ、急に神妙な顔してこっちをじーっと見てきて。それでこう言った、『何にすがってでも助かりたいか』って。そりゃあ、こっちはワラでも掴みたい、まあワラあっても燃えてるけど。当然答えはイエスしかないよな?」
 陽介は転がって仰向けになり、点滴の針が刺さった腕を天井に伸ばした。
「相手は黒光りするゴツいスーツ、右手の代わりになんかすごい弾撃ちそうなメカ、気味悪いほどギラギラした目。アメコミに出てくる悪役(ヴィラン)みたいな奴が、お前の身柄を要求してくるんだ。ヤバそうだろ? でもさ、なんでか思っちゃったわけよ。こいつは俺を助けるために来てくれたんだって」
「どんな奴だよ。ヤバいのはお前の頭だ」
「そう言われても実際そうだった、というか今も俺にはそんな感じに見えてるから。でも彩芽の目には違う姿に見えてるんだろ。亮ちゃんが言ってた、自分が見たのとも全然違うって聞いたって」
「……柏木さんが?」
 挙がった名をサイガが認識するまでには少し時間を要した。長いつきあいになる人物だが、下の名前で呼ぶ人がほとんどいないので、すぐには記憶と結びつかなかったのだ。
 しかし理解したところで何も頭に描けなかった。陽介の説明に出てきた表現はよく分からないし、ここにいない人物の心中など掴めはしない。サイガの記憶にある謎の兵士サリエルはもっと現実的な武装をしていたが、どれほど違うというのか。
 その違いが何だというのか。
「まあいいか、その辺は後で本人に聞くからもういい。で、お前はその怪しい奴の手を借りて、車から脱出したって?」
「いやー、うん、そうっぽいけど、なんというかだな」
「どっちなんだよ」
「一瞬だったんだよ。『息子でも何でもやるから助けて』って訴えたら、急に強い力で引っ張り上げられて、気がついたら救急車の中。そのまま一緒に、病院行きになった」
 常識的に考えたなら、駆けつけた消防隊か何かに助け出され、担架に乗せられたとするのが妥当な説明だろう。そして陽介が旅の道連れの存在を主張したところで、当時は一人旅で同乗者もいなかったと聞いているから、一緒にいるのは救急隊員だけのはずだった。
 そして陽介は一命を取り留めた。
『本来はタクシーの運転手だけでなく西原陽介もそのとき死ぬはずだったの』
 いつか聞いた死神の言葉がサイガの脳裏にちらついた。
 そのとき見せられた“映像”には、炎上する車から人が引きずり出される様子が映っていた。あれほど高画質の証拠映像は他に一度も見たことがなく、クオリティが高すぎて逆に本物の記録だったかが途中から疑わしくなってきた。今や確かめようもないが。
 とにかく陽介は助かってしまった。
 それだけが今ここにある現実だ。
「あいつに言われたとおり、命だけは助かった。まあ手術とか薬とか、手術とかリハビリとか、超つらかったけど、おかげでこうしてお前と話ができてるってわけだ」
「調子乗んな」
 サイガの手がフットボードを揺らした。
「このままお前はずっとへらへらしてる気か。さっき大事な約束がどうのこうのって言ったよな、それはいったい何なんだ。本当に果たす気あるのかよ」
「当たり前だ」
「だったらそれ果たせよ今すぐ。内容は? 相手は今どこにいる?」
「そんないっぺんに言われても。落ち着いてくれ」
 陽介は枕の上に置いていた頭をもたげ、それから両腕の力だけで上半身を起こした。腕に絡まった点滴のチューブが不安そうに震えた。
「いいか彩芽。その約束は今すぐどうにかできるものじゃない。まずその相手がいない」
「は?」
「行方が分からないんだ。そいつは『二十年後にまた来る』と約束して、俺と亮ちゃんの前から姿を消した。それがちょうど、今から二十年前の、三月のことだった」
 サイガの目がベッドの背後に向いた。
 白い壁に掛けられたカレンダーには一月と二月の日付が記されていた。一枚めくらなければ三月は現れない。
「あと少しなんだ。俺はそいつに会って、大事なものを返さなきゃならない。それと全力で、謝らなきゃならない。……あと少しなんだ。それまで俺は、死ぬわけにはいかない」
 陽介の目は息子を見ていなかった。
 どこか遠くの空間へ、時間へ、向けられていた。
「できることがあるとしたら、せいぜいリハビリに励んで退院を目指すこと、ぐらいだろうな。……お前もその日が無事に来るよう願いながら、待っててくれ。俺の心残りはそれだけだから。それが終わったら、死神に引き渡されることになってる。全部が終わる」
「本当に、それだけなんだな。約束っていうのは」
 問われた陽介はうなずいた。
 その動作を目で確かめたサイガは、フットボードから手を離してベッドに背を向けた。
 抱えていた疑問に答えを得た瞬間、この場所に居残る理由が消えた。次に取るべき行動を他に思いつかない。
 自分の持ち物だけをポケットに収め、病室のドアを開けた。
「動くな!!」