[ Chapter18「デッサン」 - F ]

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《あなたの正体は最初に助けた日に知らされていました》
 重孝に直接話を聞いてから一昼夜。窓の外に広がる景色から光が消えていく中、ウィルは生活も責務も忘れ、ベッドの上に座って考え続けていた。
 あれから誰とも話していない。
 院長たちは世話を焼きに来ない。
 教官からの指令も一向に届かない。
《外で倒れていたあなたが処置室へ運ばれた後、僕はこの本を拾いました。そのとき声を聞きました。見つけてくれてありがとう、というような内容でした》
 ウィルは指先にかけた最低限の力で日記帳のページをめくった。
 昨日そこに記された文字はいつもの白い羽根が使われたにもかかわらず、銀色の輝きをすぐに失っていた。今は夜空の色に落ち着いている。丁寧な文体と素朴な字体は、先日の女刑事の記録と同じ言語が使われているとは思えないほど、目に優しく読みやすかった。
 しかしその内容はウィルにとって衝撃の連続だった。一連の文章は思いがけない告白から始まり、訓練生を悩ませてきた補習の裏側を暴露する話へと続いていた。
《僕は母に頼まれて、この本を調べました。でも僕はあなたがたの文字を読めませんでした。調査はあきらめてあなたに本を返そうと決めたとき、また声が聞こえてきました》
 記述によると声の主は自らを「先生」とだけ称し、重孝に助けられた者が自らの教え子であること、大事な課題のためにこの街へ送り込んだことを告げた。そして重孝の優しさと口の堅さを見込んだとして、二つの頼み事をしてきたという。
 一つは、右も左も分からない教え子を保護し、何かに困っているようなら助けてやってほしい、というもの。
『つまり、俺がこの家に居続けることになったのは、あんたを通してそのような指示を受けていたからだった……?』
 前の晩、ウィルが重孝から返された日記帳にその場で目を通したとき、真っ先に浮かんだ疑問が口をついて出ていた。すると重孝は迷わず首を横に振り、それから部屋の外を気にするようなそぶりを見せた。
『ここの外、に居る……院長?』
 重孝の首が小さく縦に揺れた。
『院長が言い出した?』
 続けて縦に揺れた。
『院長はここに書かれた内容を知っているのか』
 首が大きく横に振られた。それから重孝が少しだけ身を乗り出し、長い指で日記帳の記述の一部を指し示してきた。
 二つ目の頼み。教え子の正体や目的を他者に知られないようにしてほしい。
《先生はときどき僕の夢の中に現れて、いろいろなことを教えてくれたり、あなたの様子を尋ねたりしました。先生は、こうやって直接話すことのできる人間は少ないから、この会話を人に聞かれることはない。あとは本人がぼろを出さなければ、誰にも気づかれずにいられるはず、と言っていました》
 補習初日の裏話に続くのは、それからの半年間にウィルが出会った人物や、直面した出来事にまつわる記述だった。院長や看護師はもちろん患者たちやその家族、出入りの業者、なじみのスーパーの店員、先日の特別講師など多彩な顔ぶれが連なっていた。
 それらにウィルが初めて目を通したとき、まず気になったのは昨秋の文化祭の話、それも二人で学校を抜け出すくだりだった。当時ウィルはまさに日記帳の力を借り、教官と話してから行動を起こした。そのとき重孝の目には全く異なる光景と情報が映っていたらしい。
《あなたは他者への頼り方を知らないと聞いていたので、あなたの方から僕に協力を求めてくれたときには、本当に嬉しかったです》
 同居人に頼るという行為はウィルの発案ではない。言われるままにそうしただけで、それがどんな余波をもたらしたかなど考えたこともなかった。
 一方、何も知らないはずの重孝は行くべき場所への道案内を黙って引き受け、その後も妙に察しのいい行動で手助けしてくれた。教官の指示が筒抜けになっていたとするなら合点のいく話なのに、真相はそうではないとでもいうのか。
 ますますこの男がよく分からなくなる。
『俺が一人で外出したとき、迎えに来たことが何度もある。それも、誰の指図でもない行動だったのか』
 ウィルが重孝に尋ねると、すぐに肯定する仕草が返ってきた。
『どうやって俺を探し出した?』
『勘』
 今度は小さな声が返ってきた。
 その場では一言しか答えてもらえなかったが、後でウィルが一人きりになってから日記帳を読み返したとき、より具体的な答えを見つけた。
 探すときはおつかいの行き先やその時の関心事などの事前情報、そして自らの土地勘が頼り。特別な技術も道具も持たない人間が行う単純な手法だ。もちろんウィルの行く手に先回りし続けられていたわけではなく、見逃しや入れ違いなども多かったという。
《たとえば、クリスマスの前にあなたがひなぎく先生を送っていったときは、幼稚園を出発する前に大まかな場所を聞いていました。あなたが道に迷って帰れなくなる方が心配だったので、そうしました》
 筆跡も内容も素直でまっすぐなものだった。
 前髪の奥からウィルを見据える目もまた同じだった。
《この前あなたが早朝からこっそり出かけていったときは、きっと先生に呼び出されたのだろうと思いました。だからはじめは黙っていましたが、何度か出かける間にあなたの腕や肘に小さな傷が増えていることが気になって、後をつけることにしました》
 読み返すたびに、己の脇の甘さを思い知らされた。
 読み直すうちに、教官から言われたことを違う意味で見るようになっていた。
(これは訓練だ。つまり……必要になるものは最初から用意されていた)
 窓の外はすっかり暗くなっていた。
 人間は夜目が利かない。ウィルは開いた日記帳を持ったまま、学習机の上に置かれたライトに手を伸ばした。ともった灯を受けたページの白さがまぶしい。
(俺はそれを使わない方法を選んだ、それだけだ。もっと要領の良い訓練生なら、こいつの善意も悪意も周りの親切心もうまく使って、より早く対象に近づけたかもしれないが。それはそいつのやり方でしかない)
 何を思っても今さらだと自分をなだめながら、日記帳のページを表紙に近づく方へめくっていった。その途中で手が止まった。
 教官の筆跡から銀色の輝きが失われていた。
 開始時から最新に至るまですべての記録でそれが起きていた。
 昨日使ったページの余白まで戻り、白い羽根の先端を紙の上に滑らせてみると、黒い線どころかひっかき傷さえつかなくなっていた。
「……これは」
 ウィルの手から逃れた羽根が音もなく床に落ちた。
 訓練生はそれを顧みず、日記帳をベッドに残して立ち上がった。
《僕はあなたの力になりたいです。できることを見つけたら、頼ってください》
 人間の手による記述はその一文で終わっている。
 昨夜ウィルがここまで読み終えたとき、その意味を問おうとしたところで、院長が夕食の完成を告げに現れた。すると重孝は日記帳を閉じてウィルに渡し、同時に前もって用意していたらしい一枚の封筒を一緒に握らせてきた。
 院長の目につかないようショルダーバッグに入れられ、それきりになっていた封筒を、ウィルは一日が経過したこのときにようやく開封した。
《実は、今年の初めに、先生から三つ目の頼み事をされました》
 無地の白い便せんに、重孝の字で書かれた手紙が入っていた。
 その内容はウィルの心を無慈悲にえぐるものだった。
《これから先生が僕の夢に現れない日が七日続くことがあったら、僕が先生から聞いたことのすべてをあなたに話すように、というものでした。この手紙をあなたが読むときには、その七日間はもう過ぎていて、あなたも先生と連絡が取れなくなったはずです》
 日記帳の証言より先に記されたはずの文章が、現状を的確に指摘している。
 それに続けて書き連ねられたのは、重孝が見た夢という過去に対し、さらにさかのぼった過去を語るものだった。
 それは訓練生が最初に「敵」と対面したあの日の。
 あるいはそれよりずっと昔の。
「そういうことか。教官は、最初から……」
 手紙を一通り読み終えたウィルはそれを封筒に戻すと、学習机の引き出しを空けてその中に座り込んだ。
 引き出しを閉める音に別の物音が重なった。
 彼が顔を上げたとき、窓を開けてもいないのにカーテンが揺れていた。そしてベッドの上に一枚の木の葉が落ちていた。