[ Chapter19「硝子の銃を持つ男」 - C ]

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 一年生の期末試験の最終日は絶叫で締めくくられた。
 最終科目の数学1が終了のチャイムを迎え、監督役の先生の指示で筆記具の音が一斉に止まったとき、事件は起きた。答案用紙の表面に印刷された設問と戦っていた複数の生徒が紙を裏返し、裏面にも設問があることにようやく気づいたのだった。
「ふざけるな! こんなに余白あるならもう一問ぐらい入るだろ!」
「こういうときって《裏に続く》とか書くんじゃないの!?」
「問題配るときに先生が裏も見ろって言ってたよね……?」
 非難や恨み言が声として飛び出せば、つられてあちこちから率直な指摘や感想があふれ出した。話題は設問の難易度や文章題の言い回し、問題作成者である数学教師の教え方にまで及び、前日以上に収拾のつかない騒がしさが教室を埋めた。
 そんな中、既に全く違う方向へ関心を向ける生徒が一人だけいた。
 答案を集めた先生が退室した直後、サイガが万全の帰り支度を整えた姿で立ち上がったのだ。
「ちょっと待てよサイガ、まだホームルームが!」
「分かってる。でも今から超重要な用事があるんだ」
 後ろから沼田に呼び止められてもサイガはためらわなかった。しかし他の級友からも総出で制止された上、誰かが廊下を通りかかる小森谷先生を見つけて知らせたので、仕方なく席に着き直した。
「もうちょっとの辛抱だから、な。オレだって早く帰りたいのは同じ同じ」
「お前は遊びたいだけだろ、一緒にすんな」
 肩を叩いてくる平たい手を振り払い、壁の掛け時計を睨む。
 終わった試験は既にどうでもよくなっていた。そもそも「表の設問」を満足に解けなかった身には裏があってもなくても同じようなものだったし、用紙が回収される前に流し見した記述はさっぱり意味が分からなかった。
 春休みについて思うことが皆無とはいえない。試験中は休みだった部活が再開されるし、それがなくても朝からめいっぱい泳げるなら是非そうしたいと思っている。
 しかし、今の彼にとって最も重要なことは。
『柏木亮があなたに語り聞かせた思い出の「友達」は、私やサリエルのように違うところから来た存在だった』
 先月末、病院で陽介と対面した後、死神アッシュからそんな話を聞いた。
 サイガはすぐにでも真相を確かめたくなり、その日のうちに柏木へメールを送った。ところが翌日になって受け取った返信にはつれない言葉が並んでいた。
《期末試験が終わったらゆっくり話そう。今の時期は勉強に集中して、全力を出し切ってから店においで》
 確かに「今」は大事な時期だろう。赤点を取るわけにはいかない。しかしそれ以上に、差出人は親よりも自分を知り尽くした相手だ。返信を無視して押しかけても、口を割らせるのは試験より難しそうだった。
 そう判断したサイガはひとまず引き下がり、結果はともかくトラブルは起こさないまま最終日までをやり過ごした。条件は満たしたと自分では思っていた。
 ホームルームを始めた根本先生の声がいつもより間延びして聞こえる。
 あとは柏木の店に行くだけだ。いつものように会って話すだけなのに、今回はいつになく気持ちの高ぶりが止まらない。自分を取り巻く悪夢を終わらせる救世主だからかとも思ったが、どうも違う気がするのが彼自身も不思議だった。
 しかし行く前にどこかで店に連絡を入れなければいけない。酒を出す飲食店にとって三月は貸し切りの予約が増える時期なのだ。運が悪いとゆっくり話すどころか、団体客に出す料理の仕込みを手伝わされる可能性さえ考えられた。
 殺し屋を警戒しておとなしくするのをいつやめるか。
 鞄に隠した携帯電話をいつ取り出すか。
 作戦を練りながら耐えること五分強。終業式までの日程を丁寧に解説した根本先生が、やっと日直に号令を求めた。
「起立。礼……」
「皆さんさようなら……え? あらら?」
 誰より早く教室を飛び出したサイガに、担任の困惑は少しも伝わらなかった。
「ゴラァ! 廊下を走るな!!」
 階段を駆け下り昇降口を抜けるまでの時間に、生活指導の怒号が割り込む隙はなかった。
「ちょっと、そこの君、待って……!?」
 脇目も振らず校庭を突っ切る足を、すれ違う人は誰一人止められなかった。
 勢いのまま正門を抜けたサイガは普段の通学路を早々に外れ、違う曲がり角から街の中心部を目指した。途中、自転車を避ける折に走るスピードを少し落として、余裕の生まれた手で学生鞄から携帯電話を取りだした。
 もちろんあの店の電話番号は端末に登録してあるが、小学生のときから出入りしてきた場所だ。数字の並びは頭の中でもしっかり記憶している。
 どうか忙しくない日でありますように。
 祈りながら、加速しながら、画面を見ることなく片手で数字キーを押していった。十桁が揃ったら通話マークを押して端末を耳に当てる。それだけの動作を右手に任せた。
 しかし、難なく終わるはずだった操作は九個目の数字で途切れた。
 十字路の横から誰かが飛び出してきたのだ。サイガは両足に急ブレーキを掛けつつ体を横へ傾け、通行人との正面衝突を回避した。突然のことに気が動転して思わず携帯電話の画面を閉じてしまったが、手から落とすことはなんとか食い止めた。
「何だよ、危ねえだろ……」
 自分も走っていたことを棚に上げ、同じく立ち止まった通行人を見て、目を丸くした。
 無地の背広を着たその相手は、飛び出してきた時点では一人しか見えなかった。しかし改めて対面したとき、そこには同じ服装の人物が五人も並んでいた。
 いつからいたのか全く分からない。
 どこに隠れ潜んでいたのか見当もつかない。
 サイガは彼らの顔を順番に見たが、知り合いは一人もいなかった。記憶や直感と照らし合わせる間に、横一列の並びが壁のように見えてきて、思わず半歩後ずさりしていた。
「西原彩芽くんだね」
 壁を形成するうちの一人が口を開いた。
 整った顔立ちをしているが自己主張の強いタイプには見えない。話し方も柔らかいだけに、一歩前に出て語りかけるという行為がどこか異様に感じられる。
「おそれることはない。我々は、悪しき企てから君を保護するために来た」
 握手を求めるように右手を差し出しながら口にするのは、用意してきた台詞なのか、素で言っていることなのか。どちらにしてもサイガには、まともな人間が本心から発した言葉だとは思えなかった。
 彼らはこちらの名前も顔も知っているらしい。
 しかし自らの名前も所属も明かそうとしない。
 よく訓練された笑顔のまま握手を待っている。
 はっきり言って、怪しい。
「なんか勘違いしてませんか」
「ちょうど今、最後の取引が行われている。愚かな人間の逃避行が終わり、君は自由を取り戻す。しかし完了までに何が起こるか分からない、今から我々と安全な場所に」
「意味分かんねえよ。いきなり出てきて、いきなりバカみたいな話されて、誰が信じる?」
 サイガは腹の底から反発の声を上げた。
 その声量に背広の人々は怯んだ。そして互いに目配せをして、さらにはっきりと標的の周りを囲もうとした。
 捕まるかもしれない。サイガが身構えたそのとき。
「お前たち! そこで何をしている!?」
 先ほど人が飛び出してきた道の反対側から誰かが走ってきた。
 新手が現れた方向へ首を回したサイガは、己の目と頭を疑った。
 現れた面々は彼を取り囲んだ集団と人数も服装も同じ。乱入者とそれに驚く人々の顔を見比べると、違いが分からないほどよく似ていた。後から来た方も先客を見て愕然としているから余計に区別がつかない。
「何なんだ、お前たちは!」
「それはこちらの台詞だ。偽者め、すぐに立ち去れ」
「偽者が何を言っている?」
 全く同じ顔と声の二人が正対し、口論が始まった。
 それぞれの仲間たちはしばらく互いのグループを見比べていたが、そのうちの一人ずつが顔を近づけると、同じ顔同士の睨み合いや掴み合いが連鎖的に始まってしまった。
 いつしかサイガだけが一人きりになっていた。
「な、何だ、この状況……」
 漏らした本音に反応する者はいない。異常な場面に戸惑うばかりのサイガだったが、ふと、その状況が持つ別の側面をひらめいた。
 そして邪魔者が出現しなかった道、つまり彼が当初目指した方角へ、駆け出した。
 逃走に気づいた背広たちが口々に「待て」と言ったが、少しも止まりたくならなかった。