[ Chapter20「気になる少年たちの事件簿」 - A ]

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「それではお待ちかねのアレ、皆さんにお返ししますね〜」
「別に待ってませーん!」
 期末試験が終わり、休日を挟んで最初の登校日。さほど多くない数の笑い声が自然に収まってから、根本先生は一年三組の生徒の名を順に呼び始めた。
 国語の試験は現代文と古文の二部構成で、先生は両方をいっぺんに手渡しで返すやり方を好んでいた。その際一人一人に声をかけるまではいいが、添えるコメントが常に一言では済まないので、いつも他の教科に比べて生徒の待ち時間が長かった。
 もちろん答案返却に乗じた長話を黙って聞く者はいないに等しい。自習を始める者もいれば堂々と昼寝する者もいる。最初はマナーモード状態だったおしゃべりの声は、時が経つほど休み時間の声量に近づいていった。
「次は〜、片岡くん。今回もよく頑張りました。よく書けていたのはね……」
 まりあは自分の答案が最後に返されることを知っている。手前にいる幹子が動くまでは名前を呼ばれるのを待たなくていい、と二学期の定期試験二回で学んでいたので、今回は少しも心がそわそわしなかった。
 その代わり、いつも以上に周囲が気になった。幹子は塾のテキストを持ち込んで自習。依子は携帯電話を隠しもせず何かの文章を入力している。他の友達は席の近い者同士で話したり笑ったりしていたが、まりあの耳に内容までは届かない。
 授業中としては騒がしいが、平和な光景ではあった。
 しかし何かが欠けているような気がする。
「田坂くんは、ちょっと惜しかったところがありました。ここの問題、どうやって解いたのか、先生に教えてくれませんか」
 なんとなく教卓の方へ目をやって、同級生が一人足りないことに気づいた。
 まりあの席から見て隣の列、前から二番目。他と違う髪色が否応なしに目立つ後ろ頭が見当たらない。少しだけ身を乗り出して座席の列の間をのぞいてみると、その席だけ机の横に鞄が掛かっていなかった。
 朝のホームルームで根本先生は「皆さん揃いましたね」というようなことを言っていた覚えがある。つまりその時点で来ていたのなら、いつの間に早退してしまったのか。
 しかし思い起こせば、今朝登校した時点から一度も見ていない気もしてくる。
(西原くん、そういえば最終日に……)
 試験の全日程を終えた後のホームルームで、サイガは根本先生よりも先に教室を、文字通り飛び出していった。そのとき彼は教室前方の扉を使ったので皆に背を向けていたのだが、試験を終えた喜びや開放感を少しも抱えていなかったことは、表情を見なくてもなんとなく感じ取れた。
 時間厳守の大切な用事でもあったのかと、その場では考えていた。
 日を置いて改めて振り返ったとき、まりあは別の可能性を思いついた。
(ご家族に何かあったのでしょうか……?)
 彼の父親が交通事故に遭い生死の境をさまよったのは、ちょうどまりあが転校してきた頃だった。それなりに大きな報道までされた事故だったが、あれから悪い知らせを聞いた覚えはなかった。しかし回復や退院といった良い知らせも聞いていない。
 わき上がる心配な気持ちが勝手な想像を連れてくる。もし自分が同じ立場になったら。両親のどちらかが事故に遭ったら。
(とても心配で、とても悲しくて。……でも、きっと、打ちのめされたままではいられません。私がふたりを支えていかないと)
 そこまで思い描いてから、当事者が自分ではなく同級生だという現実が想像を打ち切らせた。彼の内心も家族との関わりも、まりあが知っているものとは全く違うのだろう。そもそも今日の欠席が家庭の事情だと決まったわけでもなかった。
「堀内さん〜。あらあら、浮かない顔してますねえ。でも元気出して、ほら、この点数」
「浮かなくなんかないし」
 トゲのある言葉が教卓を突き刺した。
 まりあが顔を上げると、答案用紙を手に自分の席へ戻ってくる依子の姿があった。その表情は浮かないどころか怒りに満ちていた。

 翌日もサイガは教室に姿を見せなかった。
 まりあは朝のホームルームで根本先生の発言を注意深く追ってみた。先生は女子生徒に病欠がいることを告げたが、男子の欠席者には触れないまま話題を変えてしまった。
 もしかしたら昨日の朝の時点で何か告知があって、聞き逃しただけかもしれない。良い意味で想像を裏切る答えを求め、根本先生が教室を出たタイミングで背筋を伸ばし、幹子に声をかけてみた。
「あの、山口さん。昨日から西原くんが学校を休まれている理由、何でしたっけ」
「サイガくんが?」
 後ろの席に向けて振り返った幹子は、的外れなことを言われたような顔で、教卓に近い席を見やった。そして気の抜けた言葉を返した。
「そういえばいないね。全然気づかなかった」
「えっ……ええっ?」
 想像の範囲にかすりもしない反応に、まりあは自身にもよく分からない声を出してしまった。おかげで幹子が気だるそうに元の姿勢へ戻るのを止め損ない、そこで会話は途切れた。
 それから昼休みまでの間に、場所と相手を変えて似た質問をしてみたが、何故か同じような反応しか得られなかった。隣の依子から変な目で見られ始めたので答えを探すことはあきらめたが、なんともいえない心地の悪さはかえって強くなっていた。
「休む理由なんてどうだっていいでしょ。試験は終わってるんだし」
(私が気になるのは、そこではなくて)
 二日続けて休むことにも、先生が何も告知しなかったことも、思えば小さな問題だった。
 まりあの他に誰も気にしている人がいなかったという事実と比べたら。
 最初からいないことが当たり前のような空気と並べたら。
(……クラスメートの心配をするのは、おかしなことなのでしょうか?)
 悩むばかりで何の進展もないまま、午後の授業までの間に全科目の答案用紙が生徒たちの手に戻り、期末試験の成績が確定した。
 ホームルームが終わると生徒たちはバラバラの方向へ動き出した。もう春休みに入った気分で遊びに行く者、予備校の試験を意識し出す者、部活しか頭にない者、赤点が確定し先生から呼び出された者。様々な足音がまりあの席の後ろを通り過ぎた。
 行き場のない本音を抱え、まりあ自身も演劇部の部室へ向かうべく教室を後にした。すると考え事のせいか下向きになっていた視線が、廊下の真ん中に取り残された物を捉えた。
「これは……ハンカチですね」
 カラフルな円盤形宇宙船の柄をちりばめたハンカチは明らかに誰かの落とし物だ。しかし持ち主の名はどこにも書かれていなかった。
 まりあは廊下を行き交う生徒たちの顔ぶれと向かう先を眺め、物を探す人が見当たらないことを確かめた。そして教室のはす向かいにある階段を下り、落とし物の一時保管場所があるという職員室を目指した。
 ところが職員室の入口は男子生徒の一団によってふさがれていた。
「鍵貸せないってどういうことですか!? 梨元先生は『いいよ』って言ったのに!」
「顧問が許可すれば何でも許されると思うな。どうせ適当な説明して適当な返事を引き出したんだろう」
「そんなことしません! 僕らのこと何だと思ってるんですか!」
 開きっぱなしの扉の前に五人の生徒が詰めかけ、一年生の学年主任と言い争っている、というより冷たく突き放されているところだった。生徒たちは口々に切実な事情や思いの丈を訴えたが、先生には少しも響かなかったらしい。
「それが本当に、わざわざ非常階段を使わないと成立しないことなのか。もう一度よく話し合ってこい」
 ついには扉を閉められてしまった。
 落胆したり顔を見合わせたりしている一団の後ろで、まりあは次の行動に悩んだ。この空気の真ん中を突っ切って職員室を訪ねていいものか。明らかに機嫌を損ねた先生の他にも誰かが中にいるだろうか。
 しかしまりあが方針を決める前に、なぐさめ合いを終えた五人が振り向いた。その中には彼女がよく見知った顔、そして彼女を見てひときわ驚く顔があった。
「あ、あの、その、それ……君の?」
 さっきまで先生に反論していた声の主が、銀縁の丸眼鏡の奥で目を輝かせた。口を小刻みに震わせながら右手で指したのは、まりあが拾ったまま持ってきたハンカチだった。
「これですか? 先ほど見つけた落とし物ですが」
「どこにありました?」
「二階の、一年三組の教室から出てすぐのところに」
「じゃあそれは僕のです。見つけてくれてありがとうございます」
 どうやら落とした場面に心当たりがあったらしい。丸眼鏡の生徒が嬉しそうに手を出してきたので、まりあは彼にハンカチを手渡した。
 するとその隣にいる見知った顔、沼田が突然手を叩いた。
「ひらめいた! 雨宮さん、今ちょっと時間ある?」