[ Chapter21「そして契約は始まった」 - D ]

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 鳥のさえずりが夜明けを告げた。
 目を覚ましたウィルは前日と同じマットレスの上で、昨夜と全く同じ姿勢のまま眠っていたことを知った。身を起こしてから認識したのは、窓の方からわずかに差し込む光と、代わり映えのしない静寂だった。
 またしても外界から取り残された一人の朝なのか。
 己の力ではどうしようもない現状を胸に部屋の出口がある方へ首を向けると、昨日の朝にはなかったものが目に入った。
 一真が床に手足を投げ出し熟睡していた。
「……いたのか……」
 その寝相を一段高い位置からしばらく眺めた後、ウィルはその場に座り直した。
 昨夜は隣り合わせを保ったまま、体感時間では恐らく夜半まで、ずっと話していた。互いが持つ情報を共有しただけではない。話はこれから先の行動、味方のいない状況を打破する作戦、その具体的な行動計画にまで及んでいた。
 二人にはそれぞれの目的がある。
 同じ標的から違うものを得ようとしている。
(堕天使サリエルは契約の履行にしか関心がないと言うが)
 天の軍勢が世界全体の均衡と調和を重んじるように、地獄の軍団は個々の欲望や利益を優先する。人間の願いと寿命を天秤にかける取引は後者の信条に基づいていればこそ実行できることだ。
 それを承知でも考えていないとしても、同じ行為に手を染めたサリエルは確かに自分たちの敵対者だった。遠い昔に罰を受けた理由は私欲による罪ではないらしいが、処分を不服として脱走したのだから、その時点で天使の矜持は捨てたのかもしれない。
 しかし。そうだとしても。
(何をもって条件を満たしたとするつもりなのか)
 未だ慣れない、一回り小さくなったように見える左手を、握りしめた。
 閉ざされた部屋に朝が忍び込んでくる。
(契約が終わったら相手を、手に入れた魂を、どうするつもりなのか)
 一般的に悪魔はしばらく人間の横暴に付き合った後、物質界から引き離して今度は自分の配下にするという。責め苦を与えて楽しんだり、肉体ごと食べてしまったりする者もいると一真は語っていた。
 あの落伍者もそうするのだろうか。
 自分の約束のために我が子を差し出したという男を、差し出された少年を、連れ去るつもりなら阻止しなくてはならない。
(だが、契約者を満足させるだけで済むなら)
 敵は手強い。天より奪った賜物たる邪視はもちろん厄介だし、結界については他の悪魔が仕掛けたそれを奪い取った瞬間を何度も見てきた。特に集団幻覚が得意だったという話も日記帳から得た覚えがある。
 しかし堕天使は再会の願望を幻覚で満たさなかった。
 それどころか目立つ扮装で出没する道化のような振る舞いをしていた。
 契約の相手を放置し、幼児の姿でこちらに接触してきたこともあった。
 もっと効率的な、もっと敵対勢力との接触を避けられるやり方が、皆無とは思えない。一真が直接対決に挑んだとき言っていたことがすべてその通りだったとしても。
(無駄な行動がある。それが無駄でないとしたなら、別の目的がある)
 マットレスの横に転がっている一真に動き出す気配はない。今は夜のままになっている空気に埋もれているが、そのうち日が昇れば光を浴びそうな位置にいる。
 ウィルは同胞が敵に語りかけていた横顔を思い出した。それから彼が口にした事実と推測とを数えようとしたが、途中から自分が彼らの会話を聞いていなかったことに気づいてしまった。
 そのときウィルは隠れている敵を探していた。
 直前には堕天使の手を離れた短剣を調べていた。
(そういえば、あの武器はどこへ行った?)
 この封鎖された部屋で目覚めた時点では既に持っていなかった。
 狙撃手の存在に気づいた後、人質を守るために飛び出していった時点では、まだ手に握っていたはずだ。
 大きなダメージを負った後、敵に取り返されたのか。そうでなければ一真がどこかに隠している可能性もあったが、昨日この室内を調べたときにそれらしき物は見つからなかった。
 そもそも結界の内で作り出された不安定な物体だったのか。特別講義で教わったとおりに仮定したら、それは自分たちが撤退して現場を離れると共に消えてしまうことになる。
 確かめようにも正解を知りうる人物は眠りに落ちたままだ。面倒な立場にあるウィルをかくまって肉体の修復を施した上、さらなる行動のために同胞を避けつつ敵を調べる。簡単にいかないことを立て続けにこなしたから、力の消耗は激しいだろう。
 今は回復を待つしかない。
 単独でもできることをやるしかない。
(これから俺たちはサリエルと再戦する。目的は二つ)
 ウィルは立ち上がり、両腕を垂直に伸ばした。
 以前の彼なら不安定なマットレスを足場にしても天井に手が届いたかもしれない。今でも一見届きそうだが、現実には冷たい空気が手のひらにまとわりつくだけだった。
(まずは奴の結界による封鎖を破り、再会の約束を完遂させること)
 一真が物質界への再訪を特例で許されたのは、一目でいいから会いたいなどというささやかな望みのためではない。目的の達成にはしかるべき手順、そして邪魔が入らない環境が必要だった。
 貸し与えた天使の翼を元の持ち主に戻すために。
 人間に力を直接分けるという禁じ手に対する償いのために。
 もちろんその儀式をもって罰が終わるわけではない。不干渉の保証を失った人間たちの行く末はともかく、自身が幽閉生活に戻ることを一真は承知している。
(そして、奴が持つ賜物を、こちらに引き渡してもらうこと)
 ウィルが物質界に派遣されたのは、自分の失敗で危険にさらした少年を救うためだったが、そのためには結界を破るだけでは足りない。視られた者を支配する眼という恐ろしい罠を突破する必要があった。
 親だけが背負うべき罪から子供を解放するために。
 師の企てに知らず荷担した失敗に対する償いのために。
 一真によれば、今回の補習そのものが問題視されている以上、本来の目標を達成しても評価されないどころか罪に問われかねないという。そこで提案されたのが、教官や監査の想定を超える手柄を立てることだった。
(そのためには……)
 訓練生は天井を睨んだ。
 この部屋も結界の内だというなら、少なくとも外の世界よりは敵陣の環境に近い。空間の変質を感じ取る練習くらいはできるだろう。
 特別講義の内容を想起しながら呼吸を整える。
 修復を受けたときの感触をなぞって霊的素子をたぐり寄せる。
 空気のうねりが、張り巡らされた見えない糸が、光の差さない天井を背景に浮かび上がる――
「やめろ!!」
 足首を掴まれた瞬間、ウィルの視界はただの暗闇に戻った。
 変化のなくなった天井に目をこらした顔のまま下を向けば、一真がマットレスの縁に飛びつくように伏し、後輩を両手で捕まえていた。見上げてきた顔は恐怖と驚きに固まっていた。
「何やってるんだ、こんな時に! 貴重な隠れ家をぶち壊す気か!?」
「そういうつもりはなかった」
「だったら何だ、組み立て直した体を崩す方か。それも違うって顔だな、でもお前さんがやりかけたのはそういうことだ」
 実際ウィルは自身の変化も結界の変化も起きていないように感じていたが、問題点は違うところにあるらしい。真剣な凝視から顔をそらさないままそのまなざしの意味を考えていると、一真の方が視線と肩を落とし、ウィルの足首から手を離した。
「付け焼き刃の知識だけでなんとかなると思うな。教官がお前さんにあれこれ詰め込んだのは敵の手口を少しでも知るためだ、それも多分だけど教官自身が手助けすることを前提にしていた。俺は実体化の制御はできるが結界はまだだってこと忘れるなよ」
 上半身を起こした一真が切実な目でウィルを見上げてきた。
 特例の前には原則がある。結界という特殊な技術は構造を知っているだけでは扱えない。もう一段先を学ぶためには多くの功績と長い修練、また他にも様々なものが必要になるという。
 敵はかつてそれを乗り越えた後に軍勢を見限った。
 ここにいる同胞はそれに至る前に出世の道から外れた。
 ウィルは圧倒的に不利な状況を改めて認識したが、一真の顔が青ざめている理由については考えようともしなかった。