[ Chapter21「そして契約は始まった」 - F ]

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 サイガは震えていた。
 それが恐怖なのか怒りなのか、彼自身にも分からなかった。
 現世に肉体を置いたままという話も、それなのに身体感覚がある意味も、考えの端にさえ上らなかった。
「陽介はせっかく受けた天使の加護を自ら脱ぎ捨て、現世の外に片足を出したような状態に戻ってしまった。多くの人間には見えぬ存在も目に映っていただろう。たびたび奇怪な事件に見舞われていた原因も、恐らくほとんどはそこにある」
 一真が隠れ家の中で後輩に語った一連の経緯を、冥府では黒猫が明らかにしていた。
 確かにサイガは自分が巻き込まれた事件の真相を知りたいと願っていた。しかし事の発端が自分の生まれる前の因縁だとは思ってもいなかったし、幼い頃の苦しみまでも一つの線に連なっていたと考えたら、苦痛はさらに増した。
「我々からも彼岸を見た人間かどうかは容易に区別できる。有象無象が群がることも珍しくなく、時に周囲の人間を巻き込むこともある。陽介が海を渡ったのは、どうやら自身に引き寄せられる災いをせめて家族からは遠ざけようとしたためであったようだ」
「ふざけんなよ……」
 似たような話をどこかで聞いた。
 黄金色の目に焼かれたような錯覚と共に。
『事故を契機に、陽介はようやく出奔を恥じ、家族の心を傷つける行いを悔いた。そして同時に、これまで己の身に降りかかっていた災いが縁者に及ぶことをひどく恐れた』
 いつか見た母親の幻覚が再び現れた。
 しかしサイガが顔を上げた途端におぼろな影は消えた。
 急に見つめられた黒猫が頬のヒゲをぴんと広げた。
「……そんな、よくわかんねえけどヤバいことになってて、誰も止めなかったのかよ。巻き込まれた奴を助けなかったのかよ」
「いいや、ちゃんと存在していたよ。愚かな行いを止めようとした者も、呼び込まれた災厄を鎮めた者も。我々の調査では彼にまつわる事件や事故で死んだ者はほとんどいない。名もなきヒーローたちによる活躍の成果だろう」
「はは……ヒーローって……」
「それに彼の“約束”は一対一のものではない。柏木亮はことの重大さにいち早く気づいて、たびたび陽介に忠告していたようだ。耳を貸さなかった本人が悪いと言えばそれまでだが」
 過ぎたことだと分かっているつもりなのに心がざわめく。
「そういえば、柏木さんは」
「無事だよ。彼に対する加護は現時点でも有効のようだ。アッシュが事情を聞きに行った際は、慎重に見なければ普通の人間と区別がつかないと言っていた」
 死神から見える世界などサイガには想像がつくはずもない。
 親しい人が酷い目に遭っていないと聞けばそれで充分だ。
「しかし」黒猫が長い尻尾でソファを叩いた。「現世の外の動きから遠ざけられている故に、彼の目には友人を苦しめる怪異の正体までは見えていなかったはずだ。君が試験を終えた後、予定通り彼に会いに行っていたとしても、“約束”の話しか聞けなかっただろう」
 サイガはうなった。意識の表に浮かびかけたことが言葉に変わってくれない。
 正面のソファに座る黒猫は次の発言か質問を待っているように見える。
 針のように細くなった瞳孔を見ているうち、今の状況から感じるものとは別種の怖さを感じたサイガは、直前に聞いた言葉をとっさに拾った。
「約束……結局その約束ってどうなったんだ。あいつと友達が再会したからもう終わり?」
「まだ草薙一真が現世に残っているようだから、彼らが考えている意味では果たされていないと考えて良さそうだね」
 思い浮かぶ顔は渦中の男ではなく、襟首を掴んで詰め寄るアッシュだった。
 彼女は重要な取り決めを一言でひっくり返されたことに怒っていた。
 そのとき同じ場所にいたらしい一真や柏木もまた、陽介の一方的なキャンセルによって予定が狂ったのか。そう思えば原因を作ってしまったらしい自分が腹立たしくなる。
 そんなサイガの心情を見透かしたように黒猫が言葉を続けた。
「しかしそれは彼らの問題だ、君が負うべき責任はない。君には君がやるべきことと、決断すべき場面がある」
「俺がやるべきこと……?」
 重要なキーワードを掴んだと思われた瞬間。
 地鳴りのような音が一体に響き渡り、窓や壁を激しく叩いた。
 身を乗り出していたサイガはよろけてソファに転がった。正面の黒猫を見ると、表情にこそ変化はないが、全身の毛が逆立って体が一回り大きく膨らんでいた。
「な、何だ今の!?」
「ああ、クジラの鳴き声だよ」
 あっさり答えが返ってくる間も窓枠の揺れは続いていた。
「クジラって、あの、海にいるでっかい奴?」
「どこに海が、と思ったのかな。ここは冥府だ。死せる魂は何も人間ばかりではない」
 姿勢を立て直したサイガは窓の方を振り返ったが、外の様子はカーテンに隠されたままになっていた。
 再び前を向いたときには、黒猫が毛繕いを始めていた。前肢と脇腹の辺りを整えたところで顔を上げ、サイガと目が合った。
 揺れは収まっていた。
「……えーと、さっきの話だけど」
 途切れた会話を拾い直そうとしてから、サイガは「さっきの話」の内容を見失ったことに気づいた。問い直すか適当にごまかすか。数秒迷ってから改めて発したのは、もっと大きく初歩的な疑問だった。
「今ここでいろんなこと聞いたけど、その、結構ヤバそうな話とか、柏木さんたちがずっと秘密にしてた大事な話とか。そういうのを俺に話しちゃって、良かったのか?」
「良いも何も君は当事者だ。彼らの行いと君の現状には大いに関係があるのだから、知る権利は当然ある。それに私は以前、君と約束したからね」
「約束?」
 黒猫が発した単語はサイガの耳に、過去の取り決めについての話とは違う言葉のように聞こえた。
「覚えていないかな。前に君が高熱を出したときだ、私はアッシュに伝えさせている。『君が冥府に来たとき、すべてを話そう』とね」
「すべてを話す」
「そう、すべてを。それは君にとって必要だと私は考えている。君自身の意思を持って決断し行動するためには、何も知らないままでいてはいけない」
 黒猫は立ち上がりかけてから座り直した。
 サイガもつられて姿勢を正した。
「いいかい。我々の役目は君をこの争いによって死なせないことだ。そして、サリエルがこれまでに打ってきた様々な手も、第一に君を生かして返すことを目的としていた」
「は?」
「信じられないとは思うが、心して聞いてほしい」
 表情をなくした黒猫が語り始めた話はこうだった。
 サリエルは天の軍勢を離れた後、自分の失脚の原因を作ったとある悪魔を訪ねた。どのような会話があったかは伝わっていないが、両者はそこで一つの勝負を取り決めた。
 天使を辞めた者が、秩序ではなく欲望のために、人間に手を貸す。
 悪魔がやるように契約を交わし、最終的に相手の魂を手に入れる。
 これまで幾多の契約を潰し、惑わされた魂を解放してきた者が、逆の立場になればかつての敵よりうまく立ち回れるのか。それは挑戦であり賭けでもあった。
「一度でも成功したら堕天使の勝利とする。つまり失敗しても彼が戦える限り再挑戦ができる。それが何を意味するか……皆がすぐに思い知らされた」
 堕天使は人間たちの身勝手な願いを聞き入れ、自分の元へ招いた。
 しかし、隙を見て悪魔たちが群がっては人間を殺し、天使がやるように魂を奪い去った。
 執拗な攻撃を受けた上、魂の結びつきを無理矢理引きはがされる。その繰り返しは奇跡の提供者を衰弱させ、着実に追い詰めていった。
 しかも襲ってくるのは悪魔ばかりではない。脱走兵を許さない天の軍勢に追われながらもサリエルは各地を飛び回り、逆転の一手を探し続けた。そして。
「最近では次にしくじれば終わりだろうと下級の悪魔たちがささやいていたらしい。そんなときに出会ったのが陽介、そして君だった。しかも陽介と違い君には差し迫った死の予定がない。悪魔たちが無理に魂を奪えば我々冥府や天の軍勢が動くと踏んだのだろう」
「あいつに価値がなくて俺にはあるって、そういう意味だった……?」
「思惑は数多いが構図は単純だ。君が陽介より先に死した時点で契約は破綻し、恐らくサリエルの敗北が確定する。だから様々な者が君を狙い、サリエルはあの手この手で君を守ってきた。それがあの屋上の一件であり、のちの様々な事件だったというわけだ」
 黒猫が両耳を立てた。
 直後、部屋中を揺さぶる鳴き声が再び外から届いた。しかも今度はサイガに驚く隙も与えず、衝突音と共に壁が崩れた。
「逃げて!」
 ソファから滑り落ちたサイガの頭上で声がした。アッシュが戻ってきていた。