[ Chapter22「シュガー&シャーク」 - G ]

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 ウィルは下り階段を一気に駆け下りると、周囲に誰の気配もないことを確かめた。それから目の前のドアノブへ慎重に手を掛けた。
 音を立てず、ゆっくりと開けていったドアの向こうから、話し声が聞こえてきた。
「その日を最後に奇怪な事件はなくなった。多分あのときに怪人ルシファーが倒されたからだろう。つまり、君が見たという怪人は、僕が見たものとは別の人物だ」
「……そう、ですか」
 落胆する少女の声には聞き覚えがあった。
「ただ、その姿を取りそうな人物には心当たりがある」
「えっ?」
「当時の事件に直接関わってはいないけれど、僕らが交わした約束のことは知っている。それだけじゃない、あのとき一真くんが『何をした』のかも見抜いている……」
 一瞬の油断がウィルの手を滑らせた。
 ドアベルの軽快な音と共に視界が開けた。
「おや。今日は千客万来だけど、開店時間はもうちょっと後ですよー」
 踏み込んだバーの店内は、ウィルが駆けてきた屋外に比べて何倍も静かだった。カウンターの周辺にだけ人がいる。困った顔で声をかけてきた店主の他に、先客が二人もいた。
 一人は椅子から立ち上がっており、店主の方へ身を乗り出す姿勢から首だけこちらに向けた。訓練生の記憶と一致する、あのお人好しの少女だった。
 もう一人は直前までじっと座っていたようだが、突然の訪問者を見た瞬間に席を離れ、駆け寄ってきた。
 その長身があっという間に室内照明を遮った。
 ウィルが目をこらしたときには、覆い被さるように抱きしめられていた。
「……重孝?」
「よかった」
 耳元で聞こえた声は震えていた。
 同居人の頭は見上げなければ視界に入らない。そもそも頭が相手の胸板の間に埋まって動かせない。首を動かさなくても表情を見ることができた頃を思い、自分の身体が縮んでしまった現在を改めて実感した。
 そして同時に、彼がすぐこちらの正体を察してくれたことに安堵もした。どうしてそのように感じたかはウィル自身にも分からなかった。
「怪我は」
「あんたが気にすることじゃない」
 押さえつけられた両腕の代わりに言葉で突き放したつもりだったが、重孝は少しも抱擁を緩めなかった。
 その腕は震えていた。
「ウィルさん……?」
「知り合い?」
「柳さんが探していらした方です。怪人ルシファーと……あっ、私が見た方のひとと、関わりがあるらしくて。それで手がかりが見つかるかもしれないからと、ここまで私と一緒に来てくださいました」
 重孝の肩越しに少女と店主の会話を聞いた。
 探されていたという事実が槌のようにウィルの心を打った。
 目的を隠して居候先を発ち、同胞の作戦に関わり、負傷して隠れ家に連れて行かれた。そんな一連の出来事をすべて知っているのは思えば当事者のみだった。視点を変えただけで、何も告げず出て行った行方不明者の姿しか残らなくなる。
 作戦のときから人間の尺度で何日が経ったのか。その間、素性不明の男と家族のように接してきた親子が、何も感じず過ごしていたとは思えなかった。しかも息子の方はこちらの事情を知っていたのだから、なおさら気がかりだったかもしれない。
 とはいえ。
「そろそろ離してくれ」
 ウィルが求めると、息を呑む音の後にそっと拘束が解かれた。
 ようやく自由になった訓練生は同居人の腕をくぐると、早足で店内を突き進んだ。後ずさりする少女の顔までは視界に入らない。カウンター越しに見下ろしてくる面長の男と向き合い、話を切り出した。
「柏木亮だな」
「そうですが、どういったご用件でしょうか」
「草薙一真の名代として来た。二十年前に貸していたものを返してもらいたい」
 店主の眉がはっきりと動いた。
 困惑した声が聞こえてきたが、部外者の反応に構う暇などない。
「理由を聞いても?」
「西原陽介を止めるために、と聞いている」
 相手の問いかけには即答した。
 ウィルにとってこれは想定済みの問答だった。隠れ家を出た後の行動を一真と取り決めた際、訪ねる人物の納得、そして自分自身の納得のために聞いておいたのだ。
 言葉の反射を浴びた柏木はしばし考えてから、持っていた何らかの道具を手元に置いた。
「分かりました。そういうことでしたら。……少々お待ちを」
 一言付け足してから若い客たちに背を向けたのは、カウンターから出るためだとすぐに判明した。天板の下をくぐるのではなく一度店奥へと引っ込み、恐らく従業員用の通路か何かを通って、表の入口とは別の扉を開けて出てきた。
「すると一真くんは、直接陽介のところに行ったのかな」
「そうだ」
 これにもウィルは即座のうなずきで応じた。元同胞や敵たちに邪魔をされていなければそうしているはずだと本人から聞いていた。
 次にやるべきこともまた、細かな確認まで終えている。
「あんたはこの二十年、言いつけの通りに節制と思慮を重んじてきた。つらい目に遭うこともあっただろう。誘惑も数多く受けただろう。よくぞ耐え抜いた」
 ウィルが右手を差し出すと、柏木も右手を重ねてきた。手を握る直前、若干寂しそうな顔を見せたのは、ずっと守ってきたものを手放す名残惜しさのためか。
 そうして二人は握手を交わした。
 ただ手のひらを触れあわせただけではない。ウィルは隠れ家で結界の構造を探ろうとしたときのように、霊的素子の流れを捉えることに意識のすべてを集中させた。
 今度は誰も止めに入らない。
 人間たちの声もちらつく光も、くすぶる煙の匂いも、静かに遠ざかっていく。
 しばらくは皮膚を通して行き交う熱とそれに沿った力の循環を感じていた。しかしそれはある瞬間から一方通行の激流に変わった。
 彼の意識さえ届かない領域へ、それは殺到する。
 瀑布の下に立ったような重圧に包まれる。
 たちまち全身を満たしていく。
 抱えきれずあふれ出す。
 解き放つ。
(ああ、そうだ。この感覚だ。たったの半年ですっかり忘れてしまったのか)
 握り返していた手をゆっくり離していくと、投げ捨てそうになっていた身体感覚が戻ってきた。冷えた空気が音と光と香りを連れてきた。
 懐かしそうに頬を緩める店主がいた。
 口元を両手で多い、感情をこらえる少女がいた。
 長い前髪の下に輝く目を隠している同居人がいた。
「ウィルさんに……翼、が」
 彼の背には波打つ水面を薄く切り出したような膜が広がっていた。星屑やガラス細工より頼りない装備を一瞥する間に、正面で床を打つ音がした。
 力を引き渡した柏木が、ひどくくたびれた様子でその場に座り込んでいた。
「陽介を、頼む」
 息づかいの荒い一言にわずかなうなずきだけを返し、ウィルは踵を返した。途中で一歩を踏み出す気配を察し、片手をかざして差し止めた。
「重孝。俺を探していたらしいが、もう分かっただろう。この通り無事だ。俺はこれから『課題』に決着をつけに行く。あんたは帰っていい」
「あの、待ってください」
 無言の抗議を近づけまいと横へ一歩動いたら、少女がウィルの正面にいた。
「教えてください。先月お会いしたとき、あなたと戦っていたあの人は、今どこにいるのか。ご存じありませんか」
「知ってどうする。あんたを危険な目に遭わせた相手だろう」
「どうしても聞きたいことがあります。あの人しか答えを知らないことなのです」
「諦めろ。もうすぐ奴の命運は尽きる、そうしたらあんたは何もかもを忘れる。無駄だ」
 両手首を締めつける痛みがウィルの舌を止めた。
 詰め寄った少女に両腕の動きを押さえられていた。
「どういう意味ですか!?」