[ Chapter23「駆ける心」 - A ]

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 水底に沈む夢を見た。
 上から差し伸べられる手はなかった。
 後ろから首を掴んでくる力もなかった。
 手足を動かせば浮上すると頭では分かっている。しかし指の一本さえ動いてくれない。おかしな状況に抗おうとする気持ちも消えていく――

 サイガが目を覚ましたとき、あたりはぼんやりと明るかった。
 しばらくは何も考えられず無意識の表面を漂った。次第に手足の重さを感じ、自分が仰向けに寝転んでいることを知った。呼吸のリズムを思い出し、いつもの朝のように起き上がろうとすると、妙にこわばった筋肉が静かに悲鳴を上げた。
「……ってえな……」
 口から発して耳に入った声はカラカラに乾いていた。
 いっそ笑い出したい気分を抱えて再び横たわると、白い空間に影が侵入してきた。
「あら、起きちゃったの」
 祐子の艶っぽい唇が近づいてきた。
 吐息に混ざる甘い甘い香りがサイガの鼻腔をくすぐった。
「無理して動かなくてもいいのよ。ほら、ゆっくり頭下ろして」
「……何してんだ」
「膝枕」
「いらねえ」
 起こしかけた頭のすぐ下に祐子が太ももをねじ込もうとしていた。サイガはお節介から逃れようと強引に身をよじったが、半回転もしないうちに段差を超えて落下し、肩と側頭部を床にぶつけた。
 助けようとする腕を振り払い、気合いだけで立ち上がった。
 やっと焦点が定まるようになった目で現在地と状況を知った。
(は? ……病院?)
 ついさっきまで横たわっていたらしい立派なソファに、凝ったデザインのカーテンや調度品に、見覚えがある。振り向けば広い部屋の最奥に大きなベッドがあった。
 介護用ベッドに腰掛けた男が、イーゼルに支えられたカンバスに向き合っていた。
 誰に尋ねなくても、顔が見えなくても、そこにいるのは一人しかあり得ない。
(クソ野郎が入ってる個室か! なんでよりによって!)
 頭の中にいらだちが充満しても、口からはかすれた息しか出なかった。
 直後にサイガの足がふらつき、忍び寄った祐子の手で再びソファに転がされた。
「な、何をお前……考えてる」
「さっちゃん、落ち着いて。ずーっと眠ってたから、まだまだカラダは半分寝てるの」
「眠って……?」
 夢を見ていたという感覚は確かに残っている。その前はどうか。
 サイガは「眠る前」を思い出そうとしたが、前夜の記憶は深い霧に覆われていた。手がかりを求めて祐子の姿以外の周辺を見ると、再びベッドの脇のカンバスが目にとまった。
『病院に行ったとき陽介の前にはカンバスがあった。絵筆があった。描きかけの絵があった』
 まくし立てる死神の声が、襟を引っ張られる痛みが、脳裏をよぎった。
『次はもっと高く飛ぶから今すぐ覚悟を決めて』
 星のない空が、殺気立つ人混みが、白いカーテンの模様に重なった。
『あの、篠原先生に会うことがあったら、伝えてくれませんか』
 冥府での冒険の記憶は噴き出すように次々と現れ、しかもそのすべてが鮮明だった。
 凶暴なサメに引きずられるように落下したこともまた思い出した。水圧も温度も分からないまま激しい流れに揉まれ、確かに沈んでいったのだ。
 もしもすべてが夢だったなら、それはとてもリアルで、斬新な内容といえた。
 そんな夢への入口はどこにあったのか。
「俺は……試験終わって、学校出て……怪しい奴らに追われて……」
「そう、そうなの。それで悪いひとたちに捕まりそうになったから、サリエル様が安全な場所に連れてきてくださったのよ。ホントに無事で良かった」
「安全? ここが?」
 こちらとしては不安ばかりがかき立てられるのに。
 サイガは頭を撫でようとしてくる祐子の手を振り払った。その瞬間に自分の腕が視界に入り、ワイシャツの長い袖に気づいた。
 制服を着ている。
 学校帰りのままでここにいる。
「そうだ部活……試験終わったから……」
「いいの。今はいいのよ。お願いだから行かないで」
 浮かせた肩を祐子の両手が強引に押さえつけた。隣に座った彼女が前屈みの姿勢を取ったので、チュニックを大きく膨らませた胸がサイガの顔の前に接近してきた。
 優しい声でささやかれるたび、甘ったるい香りが押し寄せてくる。
 サイガは身をよじって離れようとした。今度は肩を掴む手が食い下がったので、仕方なく抵抗をやめて、代わりに顔を背けた。
 以前に同じ香りをかいだときの経験に照らせば、嫌な予感しかしない。
「今日だけでいいから。明日はセンパイの卒業式だっていうじゃない。きっとそれには行けるようにしてくださるはずよ」
「明日? ……明日!?」
 卒業式が期末試験の直後でないことくらいは、香りに追い詰められた頭でもすぐに気づけた。サイガは春休み前の日程を指折り数え、それからおそるおそる祐子に今日の日付を尋ねた。
 すると祐子はサイガの顔をじっと見つめてから、背後に手を回し、携帯電話を取り出した。折りたたみ形状の背面についた小さなディスプレイに、現在時刻と日付が表示されていた。
 サイガは目をそらすこともできなかった。
 彼岸に留め置かれていた時間は一晩の夢どころではなかった。
 答案の採点と返却があり、土日の休みがあり、卒業式の予行があった。およそ一週間。もしその間ずっと、それこそ祐子の言葉通り眠っていたのなら、日々の活動をしなかった全身の筋肉はどんどん調子を落としていく。全身がこわばっているわけだ。
(嘘だろ……こんなのアリかよ……)
 頭の中では嘆いたが喉からはため息しか出てこない。サイガは口をぱくぱくと動かしながら両手を持ち上げ、肩に乗った祐子の手を静かに押しのけた。表情を見て何か察したのか、彼女はおとなしく手を引っ込めてくれた。
「え、じゃあメシとかクソとかどうしてたんだよ……っていうか、俺どうやってここに」
「サリエル様がなんとかしてくださったみたいね。今日だって、さっちゃんの代わりに学校行ってきてくださったのよ?」
 ため息が喉の奥で詰まった。
 出てきた名前と行動が意味するところを考えようとして、黒い歩兵が無理やり生徒のふりをする姿を想像してしまった。しかしばかげた設定にサイガ自身が吹き出すより早く、イメージの表面を冷たい泡が覆った。
(学校。……俺の、代わりに)
 夕暮れの路上。
 英語のノート。
 誰かの叫び声。
 転げ落ちる視界。
 人が行き交う階段。
 脳天に直撃した雨粒。
(あのとき俺は何も覚えちゃいなかった。でも俺は授業に出てたってみんな言ってた。頭大丈夫かって感じだったって、誰かが。……それで、誰かが俺のノートに、いろいろ書き込んで……)
 自分が知らない間に、誰かが勝手に替え玉となって授業に出たとしたら。
 あいつが姿を、いや身体そのものを拝借して、成り代わっていたとしたら。
 知らず時間と空間を飛び越えたような感覚の謎が解けた。その瞬間、サイガの心の奥底で、重たい隠し扉が開く音がした。
「あいつは。サリエルは、今どこに」
「動かないで」
 祐子の声が突然違う色を帯びた。
 息を呑むサイガの耳にかすかな物音が響いた。音の発生源――例のカンバスの方へ注意が向いたわずかな間に、祐子がソファを離れ、窓を覆うカーテンを人間一人分の幅だけ開けた。
 寒々しい曇り空から無数の光の矢が降り注いでいた。