窓の外は真昼の明るさと雷鳴のような衝撃に満ちていた。
ソファを挟んで向き合うサイガと一真の目にも、ちらつく光の断片は映っていた。
「さて、俺はここへ何しに来たと思う?」
一真が問いかけてきた。
サイガは息を呑んだ。
その人の顔を見ただけで何故だか安心感を覚えたし、敵対する相手でないことを知識として知ってもいる。しかし直前の物音とその後の不気味な沈黙が、初めて感じるタイプの恐怖を彼にもたらしていた。
ここは身構えるところなのか。考えすぎなのか。
「……見舞い……なわけ、ねえよな」
「半分当たり、ってとこかね」
足音がソファの横を回ってサイガに近づいてきた。
少しも笑みを崩さず、両手を後ろに回し、一真は陽介のベッドへ近づいていった。
「俺はケリをつけに来た。こいつの馬鹿を止めればすべてに片がつく」
契約が終われば。
陽介の願いが叶えば。
半年の間にサイガが何度も聞かされた条件、何度も示されたゴールラインだった。それを打ち切ろうとする動きも見てきた。たった一人の言動に、思いに、周囲はどれほど振り回されてきただろう。
静かに拳を握りしめる息子に、父親だけが気づかない。
「サイガ。俺が隙を作る、お前さんはここから逃げな」
一真がベッドの足元を仕切るフットボードの手前で立ち止まった。
「まだお前さんは誰とも“契約”や“取引”をしていない。だから外の連中も見逃してくれるはずだ」
ここから逃げろ。
助けに行くから。
それも何度となく出された提案、差し出されてきた手だった。実際に助かったこともあれば、全く果たされていない言葉もある気がする。どこまでが本気だったのか。どれほど運が良かった、あるいは悪かったのか。
サイガは返答も相づちも忘れ、記憶を探りながら、ベッドに向き合う大きな背中を眺めた。
その奥に並ぶ医療器具や壁が歪んだように見えた。
錯覚を疑う間に、目の前を一筋のまばゆい光が横切った。
音もなく現れたそれが蒸発するように消えた後、一真が頭を大きく傾け、それからゆっくりと後ろに倒れた。
「……は?」
何かが起きたらしい。
数分間かその半分か、サイガは思考も視線も硬直して何もできなかった。ようやくその目で見たものが知っている概念や単語に結びつくと、まずベッドの手前に横たわる一真を認識し、それから再び窓を見た。
閉じてあったカーテンの一枚が上下に大きく裂けていた。
ガラス板の向こうには燃え盛る色の空しか見えなかった。
「今のうちに……早く、行け」
力任せに絞り出すような声がした。
一真はサイガに見つけられるのを待っていたように、右手を挙げて病室の扉を指した。直後、先ほどと同じ色の光が手首に浴びせられると、苦しそうにうめいて手を投げ出した。
その光は窓の外から侵入したように見えた。しかしどこから来たかを探そうとする頃には既に消えていた。
サイガは何度もまばたきをしてから、一真のそばに駆け寄った。身をかがめて彼を助け起こそうとしたのだ。しかし唯一思いついた「自分にできること」は、倒れた当人の左手によって阻止された。
「俺のことはいい。行け。大事な家族のところへ、帰れ」
救いの手を振り払おうとしてくる左手が、指先から次第に、細かなチリへと変わっていった。
何かが起きている。
理解も把握もできないまま、サイガは掴み損なった透明な左手をしばらく見つめていた。呼びかけをやめた唇を、一秒ごとに色褪せる横顔を、白い砂の塊と化していく姿を、ただ見ていることしかできなかった。
特別室の行き届いた空調が謎を吸い上げていく。
現実に追いついた思考が心の温度を下げていく。
悔しさと悲しみが空気の流れに乗ってどこかへ霧散した後、残ったのは恐怖だった。こんな事態を引き起こしたのが何者であれ、その近くにいることが耐えられなかった。
(行け……逃げろ……今のうちに!)
サイガは回れ右と同時に身を起こし、広い個室が備える唯一の出口へ走った。手すりに指先が届くまでに大股で数歩、行動を起こしてからたったの三秒。正体不明の光を自分が浴びる前に廊下へ逃げ出すには十分なタイムだった。
ところが、あろうことか、肝心の扉がびくとも動かない。
押しても引いても横へずらしても、羽根一枚通る隙間も作れなかった。鍵がかかっている可能性に気づいたサイガはそれらしきつまみを回してみたが、どう動かしても錠の外れる音や手応えはなく、扉にも変化はなかった。
それでも力任せの抵抗を繰り返すうち、腕の筋肉がざわめきだした。ついには手すりを握っていた両手が離れ、思わず扉に拳を叩きつけていた。
「どうなってんだ、クソが!」
心にたまったひずみを声にして吐き出してから、その拳が視界に入った。
消えてはいないが、色褪せている。
血の通った色が失われて黒と白の狭間に沈んでいく。
プール脇の更衣室で土下座してきたあの男のように。
「……おい。おい、ちょっと待て」
サイガは扉から両手を離し、振り向いた。
心臓が止まったかのように全身が冷えた。
「お前……」
先ほど一真が力尽きた場所に別の人物が立っていた。
黒を基調とした迷彩柄の服をプロテクターや防弾チョッキで覆った、重装備の歩兵そのもののスタイル。顔は目元以外が暗い色のマスクとヘルメットに隠されて分からない。防具の破損や焦げた跡がやけに生々しく見えた。
最初の災難の日に出会った、知らない世界の戦場が、そこにあった。
『無駄な抵抗だ。貴様にそれは破れない』
傷ついた兵士が言葉を発した。
聞く者を威圧する深い響き。サイガが窮地に立たされるたび、厄介ごとに関わるたびに割り込んできた、今では耳慣れた声。
マスクとヘルメットに囲われた両目が黄金の輝きを放っている。それはこの空間に残された最後の色彩だった。
「いつまでこんなこと続ける気だ。そいつ一人のために。天使だか何だか知らねえけど、お前らがゴチャゴチャやらなきゃ、あいつらもここまで押しかけてこなかったんだろ」
『貴様に教えてやる義理はない』
歩兵の後ろでカーテンが揺れた。空調の影響には見えない。ガラス窓が役割を果たせていないのか。
「あのとき、お前が初めて俺の前に出てきた日も、そうだった。肝心なこと言わなかったよな。俺はお前らが時間稼ぎするための人質で、別に『代わりに死ぬ』必要なんかなかったこととか!」
サイガは思ったことを勢いのままに吐き出すと、一度言葉を切って息を大きく吸い、一歩前に出た。
今の彼には当時と違う点が一つある。
「お前はずっと賭けをやってて、損した分の穴埋めに走り回ってたこととか! 俺に死なれると手詰まりになるから、俺に取り憑いて勝手に体を操って、邪魔する奴らをぶっ飛ばしてたこととか! あと目撃した奴の記憶消してたとか!」
また一歩、前に出る。
カーテンの陰で閃光が弾けて散る。
「俺が屋上から落ちないように浮かせたはいいけど、逃げる途中で野次馬にちょっかい出して、そのせいで俺ごとプールに落ちたこととかな!」
歩兵サリエルの反応を見たサイガは、確信した。
冥府の川に落ちたとき、激流と共に自分の中へ流れ込んできた光景の正体を。
これまで様々な人物から聞かされてきた話の意味、そしてつながりを。
すべてがひとつの戦いだった。
ひとりきりの戦いだった。
「こうやって俺を閉じ込めて、勝ち目あるのか。あったとして、終わったらどうする気だ。そこのクズは死ぬとして……母さんは。桂は、どうなる?」
『ただの夢だ。醒めたら終わる』
「ふざけるな!!」
サイガは迷わず歩兵に掴みかかった。