[ Chapter24「賭ける心」 - C ]

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 銃弾も、投げナイフも、見た瞬間にもう消えている。
 信じられない速度で敵意が飛び交っている。
 それらが途切れても見えない火花が散っている。
 怪我人が療養しているはずの病室で、どうにも浮き世離れした姿の二人が、真剣に戦っているらしい。どこを切り取って見ても大多数の人間には理解できそうにない何かが、今この場所で起きていた。
(ど、どうしましょう?)
 まりあはソファの陰で身をかがめていた。
 この部屋へ踏み込んだ瞬間から、天使と怪人の一騎打ちは視界に入っていた。しかしそのときはどちらも凍ったように動かなかったから、その構図が意味するところまで考えが及ばなかった。
 戦闘が動き出して、ようやく彼女はそれを認識した。同時に怖くてたまらなくなり、とっさに見舞客用らしきソファの後ろへ逃げ込んだのだった。
 あの銃から放たれた弾がこちらへ来たら。
 あの鋭い刃物が自分に向かってきたら。
 考えるだけで恐ろしいし、ありえないと否定できない。
(私は確かに、あの人を探していました。手がかりを求めていました。ですが……とても話ができる状況には見えません……!)
 資料を調べているとき、バイクの後部座席にいるとき、「あの人」と出会う場面を何度も想像していた。しかしそれはいつも一対一の、まともに話ができる相手と仮定した上での願望でありシミュレーションだった。
 よく考えてみればその設定の方に無理があるのは明らかだった。これまで実際に出会った記憶をたどれば、彼はいつも誰かと戦っていたし、まりあに対しては威圧か脅迫しかしていないのだ。
(どんな理由でも、あのやり方は、いけません)
 背中の後ろで何かが弾ける音がした。
 まりあは低い姿勢からさらに縮こまり、膝立ちに両手もついた姿勢でソファの裏を移動した。落ちてきた流れ弾が何だったのかは怖くて確かめられなかった。
 手足を止めてからも心拍と呼吸を落ち着かせるのに時間を要した。体の震えが弱まると、肘掛けの横からそっと顔を出し、室内の様子を先ほどとは別の角度からうかがった。
 怪人は同じ位置にいるらしい。天使の方はよく見えない。
 例の約束に関わる柏木の友人はどうか。それらしき人物は見当たらない。
 もう一人の当事者、約束を交わした後に大怪我をしたという本人は。
(寝ていらっしゃるのでしょうか……)
 低い目線はフットボードに遮られてしまう。まりあは少しだけ身を起こし、改めてソファの向こう側を見ようとした。
 床についた手を半歩分だけ前に置いた次の瞬間、円形の硬い感触が手のひらを下から圧迫してきた。
 身を乗り出すのをやめ、手のひらを上に返してみると、ピンクゴールドの細い指輪が表面に貼り付いていた。
(あっ、可愛い)
 率直な感想を声に出しそうになって、まりあは慌てて両手で口をふさいだ。その拍子に指輪が手のひらを離れ、ソファの下を転がっていった。
 どうやら誰かの落とし物らしい。恐らく女性の。現在位置に誰がいたかなど知るよしもない彼女にはそこまでしかわからない。しかし一度は拾ったそれが逃げたとなれば追いかけずにいられなかった。
 とっさに這いつくばって手を伸ばしても既に届かなかった。指輪はソファの下を飛び出した勢いのまま部屋の奥へ転がっていき、ベッドの下に広がる影に呑み込まれてしまった。それでも小さな輝きをあきらめきれずに目をこらすと、影が少しだけベッドの外側にはみ出していることに気づいた。
(足……?)
 四つん這いをやめ、ソファの側面へ回り込んで、もう一度部屋の奥を見た。
 ベッドの上に人がいる。窓に背を向ける形で腰掛けている。手前の空間が穏やかでない事態なのに、逃げも隠れもせずにいる。
『陽介は、事故の後遺症で、両足が不自由なんだ』
 柏木の言葉がまりあの頭と背筋に寒気をもたらした。
 この事態なのに、逃げも隠れもできないなんて。
 にらみ合いの現場から声が聞こえてきた。振り向いたまりあの視界をロケット花火のような光が横切っていった。
 天使の立ち位置が、攻撃の向く先が、動いている。
(もしかして……こちらに近づいてきていませんか?)
 ソファを挟んだ反対側で、今度は派手な衝突音がした。怪人に立ち向かう天使が突き飛ばされたか足をもつれさせたか、壁際の備品を巻き込んで倒れたらしい。空のゴミ箱がソファ裏に転がってきた。
 まりあは床を蹴って走り出していた。
 その瞬間は彼女自身にも理解できなかった衝動が、身の危険を直感したからだと気づいたのは、窓枠の下を低姿勢のまま駆け抜けた後だった。
 そうして少女の隠れ場所は患者が使うベッドの脇に移った。一歩引き返せば白いコートを着た背中が見える。後ろを通る人間に気づいていたそぶりはないようだが、わざと無視している可能性もある。どちらにしても油断はできない。
 しかも彼女が選んだ床は、部屋の入り口から最も遠く離れている位置だった。何かが起きても逃げ場がない。
(もしものときは窓を開けて……ダメです、最上階だからきっと開きません!)
 まりあは顔を覆った。
 それから、自分の肩が触れている金属の棒について考え、手を下ろした。
 大きく頑丈なベッドには転落防止用の柵が備えられているが、今は使っていないらしい。格子のひんやりした感触から離れ、顔を上げると、広いマットの反対側に病着を着た人間を確かに見た。
 彼の正面に立てかけられた大きなカンバスをはっきりと見た。
 目を奪われた。
(これは……絵ですよね?)
 危険を忘れて首を伸ばした。
 状況を忘れて身を乗り出した。
「なあ、覚えてるか」
 常識を忘れる前に呼びかけられた。
 ベッドの上によじ登ろうとした足を止めたのは、息苦しさをこらえて絞り出すような声だった。
「昔、俺が『次は菜摘を描く』って言ったとき、『あんな風にさせられるわけないでしょ』って言っただろ。あれって、小さい子が長い時間じっとしてるのは無理って意味だったんだな。ずっと勘違いしてた」
 西原陽介は絵に正対したまま一方的に語り始めた。
 少し落ち着きを取り戻したまりあは静かに耳を傾けた。自分に向けられたわけではない話だとしても、たとえそれが独り言でも、話の続きがなんとなく気になってしまった。
「それで『もちろん服は着せる』って答えたときの、すっごい顔。あー、これが母親の目かって、悪いけど妙に感心しちゃったな」
 彼は後ろを向こうとはせず、左手でゆっくりと、自分の隣を叩いた。マットを包む白いシーツに放射状の跡が残った。
 隣においでと誘っている。
 恐らく、自分の妻を。
 聞き取れた言葉から場面を想像したまりあは、唇を引き結んでじっと待つことしかできなかった。振り向かれても声を聞かれても、近くにいるのが赤の他人だと悟られた瞬間に、何かが終わってしまう気がした。
「でも結局、菜摘はよくやってくれただろ。お気に入りのワンピース持ってきて、お姫様ポーズをずっとキープしててくれた。あれでよかったんだ。あの頃の俺にとって、あの頃の菜摘の、最高に美しい姿があれだった」
 まりあの脳裏に一枚の絵が浮かんだ。
 いつかカラオケ店で見つけた彼の絵には一糸まとわぬ姿の成人女性が描かれていた。妖しげな構図と魅惑的な表情は、後に調べた限りでは多くの作品に共通する特徴だった。つまりそれが西原陽介の作風であったらしい。
 しかし、愛娘をモデルにした一枚は、他の絵と全然違うのかもしれない。
 そんな風に思ったのは、目の前のカンバスに宿る輝きもまた、語られている「その人の絵」のイメージとはかけ離れていたからだった。
「本当はその頃から、こっちも描きたかった。でもおとなしくモデルやってくれるどころか、俺のこと徹底的に避けまくってただろ。寝顔だけは眺め放題だったけど。これだ、と思う姿には出会えなくてさ。……やっと捕まえたんだ」
 包帯を巻いた首筋と、ケロイドに覆われた頬のラインが、震えた。
 彼の背後にいるまりあにはそこまでしか見えなかった。
 それでも何故か、彼が笑っているのだと、感じてしまった。