[ Chapter24「賭ける心」 - D ]

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 サイガは目撃した。
 空間に現れては降り注ぐ銀の矢を。
 無色の薄っぺらな翼を背負った金髪の男を。
 拳銃を携え、激しい攻撃に立ち向かう姿を。

 ウィルは見破った。
 敵が単調な攻撃を繰り返していた理由を。
 撃った弾のほとんどが消えていたからくりを。
 そこにあるべきものを覆い隠すもう一つの結界を。

 まりあは聞き取った。
 病室の主が発した重大な一言を。
 それに応えるように響き渡る奇妙な震動音を。
 別の人物の口から唐突に飛び出した切実な叫びを。

 窓ガラスの破損をきっかけにサイガは第三者の存在を知った。しかしそれが誰で、何故こちらに銃口を向けるのか、聞こうにも聞けなかった。
 ついさっきまで話していた怪我人はいつの間にか消えている。
 代わりに黒い歩兵がベッドに背を向けた姿が見える。光り輝く弾丸を受け流しては、すぐさま何かを投げて応戦している。
 そして自分自身は、声を出せない。身動きがとれない。
(違う。何だこれ)
 応戦しているのはサイガだ。全身が勝手に動いていた。
 病室の入り口に向かって身構え、光り輝く弾丸の軌道を一瞬で見抜き、左手を覆う防具ではねのける。手の内に隠していた短剣を投げ、相手が怪我人のベッドから離れるように追い込んでいる。
 一連の動作を実行しているという感触と、後ろで棒立ちになって視ているという認識が、同時に存在している。
(こいつは何だ。どうやって入ってきた)
 天使がまた一歩後退した。夏の終わりにプールの上空で遭遇した乱入者に違いない、記憶の中の濁流がささやく。だがあのときと違い、壊れやすそうな翼には既にいくつか穴が開いていた。対決の主導権がどちらにあるかは明らかだった。
 その後ろに見える引き戸は先ほどサイガの手で開けられなかったものだ。侵入経路がそこでないなら窓だろうか。確かめたくても振り向けない。
 黒い歩兵の背中を見ている方も振り向けない。
「あんたが守りたいものは本当にそいつだけなのか」
 当たらない弾の行方からウィルは疑問の一つを解いた。しかしそれをすぐに突破口とはせず、銃を下ろさないことを優先させた。
 傷ついた翼から霊的素子の流出を感じる。
 その流れが、この場を支配する力場の形が、不自然な空白を浮かび上がらせる。
 病室に必ず存在するもの、患者を寝かせておくためのベッドが、見えざる防壁に囲まれていた。器具の存在は五感でも確認できるから、隠蔽の効果が織り込まれているなら生物のみに作用するのだろう、と彼は推測した。もちろん仕組みまでは分からない。
 結界の中へ飛び込んだときの状態が続いているなら、ここまで組み上げた仮説も理屈もきっと敵に筒抜けだろう。すべてを分かっていながら先日のようには反撃してこない。今度は言葉をもって半人前の自信を叩きのめそうとしているのかもしれなかった。
 しかし邪魔など、思惑など、関係ない。
 隠されているものが特定できれば充分だ。
「契約者を守るだけならどこでも実行できる。得意の幻覚で人間たちを欺いて退院でも何でもさせればいい。そうしない理由は」
『望まれなかった故に。ただそれだけだ』
 ガラスの銃から放たれた一撃が、何もない空中で真上に弾かれ、消えた。
 狙いを外したわけではない。おおむね推測に沿った軌道で、ついでに一拍遅れた反撃も想像したとおりだった。しかし飛び道具の速度だけを読み違えた結果、そのうちの一本がウィルの右足を貫いて床に刺さった。
 全身の硬直はダメージのせいか、それとも仕掛けのひとつなのか。
『気は済んだか?』
 非情な宣告ともとれる声はまりあにとって聞き覚えのあるものだった。天井から降ってきたようにも耳元でささやかれたようにも感じられたが、実際の発生源はひとつしか考えられなかった。
 白色に身を包んだ怪人の前で、白色を失いつつある天使が片膝をついた。
 まりあは傷ついた右足を直視してから、ふと自分がベッドの縁から身を乗り出していることに気づいた。すぐに一歩下がって身を隠し、早鐘を打つ心臓をなだめようと片手を胸に当てたが、簡単には収まらなかった。
 一瞬目撃しただけの痛みが瞳の前から消えない。
 こちらを見られたような気もしたが確かめられない。
『貴様の師は作戦こそ破られたが約束は破らなかった。その誠意に免じて今日まで貴様だけは見逃してやっていたが、それもここまでだ』
 仮面をつけた男が武器を振りかぶり、負傷した青年がそれを見上げる。
 それはまりあが最初に二人と遭遇したときの構図に似ていた。当時見たのは違う角度からだったし、事細かに記憶しているわけではないので、何がどう似ていると断じることまではできないが。
(このままでは、また、刺されてしまいます)
 ゆっくりと腰を浮かせる。視界がフットボードを乗り越える。
 優位に立つ男が左手の刃を振り下ろした。
 同一人物の右手がそれを止めた。

 怪人ルシファーの――堕天使サリエルの右手が、左手首を掴んで止めた。
 それまで全く動かなかった腕が、自分自身の動きを妨げた。
 否。
「今だ。撃て」
 涸れかけた声が仮面の中に反響して、少しだけ外に漏れた。
 訓練生ウィルが青ざめた顔をもたげた。
 雨宮まりあは悲鳴を上げそうになった。
「……もしかして、あんたは」
「いいから俺を撃て!」
 サリエルの――西原彩芽の右腕が、小刻みに震え始めた。
 ひとつの胴につながった両腕が争っている。
 ふたつの魂が組み合っている。
 拮抗している。
『貴様は自分が何をしているか解っていない』
「俺の命は俺のもんだ、誰にも渡さねえ。どう使うかも俺が決める!」
 押し戻された左腕が、短剣を構えたとき以上に高く掲げられた。押しやった右腕は勢いのままにねじれ、ほんのわずかに握力が緩んだ。すかさず白い袖が大きく揺れて妨害を振りほどいた。
 銀の刃が煌めいた。
 その手元にガラスの華が咲いた。
 ウィルが片膝立ちを保ったまま向け直した銃は、敵の左手首を狙い、それを精確に撃ち抜いた。反動を受けても姿勢と眼光を乱すことなく、彼は続けざまに引き金を引いた。
 仮面の眉間に亀裂が入った。
 コートの襟元を光の矢が貫いた。
 飛び散った光の残像が完全に消えるまで数秒、あるいは数分。硬直と静寂があった後、落伍者がまとっていた都市伝説の装いが静かに、溶けるように消えた。
 拘束するものを失った人間がゆっくりと前傾し、倒れた。
「西原くん!?」
 まりあがベッドの脇から飛び出して級友に駆け寄り、ひざまずいた。
 警戒を解いていなかったウィルは突然の割り込みに驚き、とっさに彼女へ向けた武器を静かに下ろした。それから顔を上げ、ベッドのある方へ目をやった。
 そこにある機材が、道具が、壁が、色彩を取り戻していた。
 ベッドの縁に人間が座っていた。
 そのそばに寄り添うように、何の形もなさない影が漂っていた。
「ああ、ちょうどいいところに」
 西原陽介が手元に絵筆を置き、傍らの友を見るように首を回した。
「見てくれ、完成したんだ。お前のおかげだよ」