[ Chapter24「賭ける心」 - G ]

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 二枚の写真を突き出されたそのとき、サイガの両肩が小さく跳ねた。本人は何もしていない。左右から彼の起立姿勢を支えてきた級友たちがほとんど同時に、動揺を声や表情に出さず我慢したせいだった。
 かたや誰にも焦点が当たらない写真。
 かたや一人だけを捉えた写真。
 視線をたどらなくても、何に反応したかは明らかだ。
「この男たちを見なかった? ある事件の重要参考人で、ここに来たらしいんだけど」
 目の前にいる刑事は忘れもしない、自分を通り魔の犯人扱いした二人組だ。通り魔の正体を知った今、普通の人間には解きようのない真相をずっと追っていた彼らに同情したくなったが、どうやらそれどころではなさそうだった。
 サイガは写真を持つ手を見ないよう意識しつつ、最もシンプルな疑問を率直にぶつけた。
「いや、そっちの証明写真みたいなのは分かるけど、こっち……誰か写ってる?」
 男「たち」と言いながら、二枚の写真に人物は一人しかいない。
「これは現場の……ええっ?」
 問われた女刑事が手首を返し、二枚の写真を改めて見るなり固まった。
 異変に気づいた相棒が後ろから覗き込むと、彼もまた熱の冷めた表情に変わった。大人たちがひそひそと話す間に、女刑事の指先から写真の片方が滑り落ちた。
 空中でひらりと翻った一瞬、色素の薄い顔が見えた。
 サイガの足下に落ちる寸前、写真そのものが消えた。
「そもそもこれ何の証拠だっけ」
「事件の参考人……事件?」
 刑事たちが首をかしげた。
 重孝は黙って床を見つめているようだった。
 まりあはなんともいえない顔をサイガに向けてきた。
「……ごめん、私たち何か勘違いしてたみたい。ご協力ありがとう」
 短い協議の末、稲瀬刑事は質問自体をあっさり撤回した。そして相棒共々足早に病棟を去っていった。
 重孝の息づかいが聞こえない。
 まりあの細腕が震えている。
 サイガは黙って歩き出した。両脇腹の支えはそのままついてきてくれたが、上階にいたときほど力が入っていなかった。
「ウィルさん……」
 寂しげな声に誘われて頭に浮かんだのは、ついさっきの出来事だった。
 拳銃を構えながら近づいてきた男の素性までは知らない。誰かが語ってくれるような時間はなかった。三途の川の激流に呑まれたときにその姿を見たのは確かだが、視覚情報もそれ以外も断片的で、名探偵の頭脳でもなければ解き明かせそうにない。
 しかし不思議と恐怖は感じなかった。これまで立ちはだかってきた様々な災難やおかしな連中とは決定的に違う、と心が主張していた。
 勝手に動き続ける身体は相手に飛び道具で襲いかかっている。明らかに敵と見なして始末しようとしている。
 では、相手にとっては誰が敵なのか。
 その答えをひらめいたまさにその時、自分の左手が直接刃物を握っていた。危ない、と思ったときには、凍りついていた身体が――右手が動いていた。
(そうだ、桂は右手が使えない。奴も使ってなかった……操れなかった!)
 確信した後は無我夢中で、目の前にいる“味方”へ呼びかけていた。全力を注いで“共通の敵”に立ち向かった。
 もし自分が巻き添えで死んだとしても、さんざん無茶を言ってきた堕天使を、あの男に手を貸した悪魔を道連れにできるなら。そんな思いが伝わったのか、若い刺客は見事な銃さばきで応えてくれた。
 だがその後は。
(結局、俺はこうして助かったけど。あいつらは)
 サイガの右肩から手が離れた。
 見舞客用の受付を見つけた重孝がまりあの面会者バッジを預かり、自分のものと合わせて返しに行ったのだった。時間にして十秒足らず。しかし筋力の衰えと全身のダメージを実感するには充分だった。
 それでもサイガは立ち止まらなかった。ここで休めばもっと足が重くなりそうな気がして、すぐそこに見える自動ドアを目指すこと以外は考えないようになった。左半身の支えは辛うじてついてきた。
 二段構えのガラス扉が静かに開いた。手前の一枚を通ると空気の温度が、次の一枚で匂いが変わった。
 コンクリートの地面を春の風が吹き抜けていく。
 厚い雲を散らした夜空の下に、小さな窓明かりの群れが輝いている。
 サイガの首筋は寒さに震え、心は時間の経過に恐れおののいた。ついさっきまでいた空間が明るかったせいか、照明から離れた場所があまりに暗くて何も分からない。そういえば死神と最初に出会ったのはこの病院だったが、その時もこれほど暗くはなかった気がする。
 それでも前進を止められなかった。ぐらつく足で踏ん張り、柔らかい手による補助を離れ、正面玄関前の広いスペースをさまようかのように歩いた。
「あの、西原くん」
 級友の声が追いかけてきた。
「先ほどから気になっていたのですが、右手のほうは大丈夫なのですか」
「は?」
 サイガはその心配の意味を理解できなかった。
 全身が重くぎこちなく感じられる中、そういえば右腕には痛みもこわばりもない。
「今日、学校にいらしたとき、三角巾で腕をつっていましたよね。転んで骨折されたとの話も聞きました。その、あまり無理されない方が……」
 不安定な歩みがぴたりと止まった。
(学校に、今日、行ったのは。あいつだ。俺じゃない)
 自分をこの病院に連れ去っておきながら、わざわざ自分になりすまして代わりに登校してきたと、ついさっき聞いたばかりだ。あの堕天使はどう化けても右手が使えなくて、それをもっともらしい理由でごまかそうとしたのだろうか。
 何の治療も受けていないはずの右腕に左手で触れた。痛みはない。きっとどこも折れてはいない。
 触れられたという感覚もない。
(……何だ、これ)
 運動の成果と明らかに違う汗がサイガの頬を伝った。
 見下ろせばすぐ視界に入る腕が、意思に反して全く動かない。左手でたぐり寄せた手首をどれだけ力強く握りしめても、他人の手を掴むような左手側の感触しか得られなかった。
 おかしいのは右手か左手か、それとも頭の中なのか。
 違う。こんな異常をもたらすとしたら、それは。
「やられた……!」
 サイガは走り出していた。薄暗い足下に転がる小石を蹴散らし、誰もいない歩行者用通路を左右にふらつきながらも駆け抜けた。
 建物の周囲には無人の車がまばらに停まっているだけ。
 見上げればビルの屋上の赤い灯がまたたいているだけ。
 最上階の窓がどれも暗く、そこだけ時間が止まっているかのように動きがない。その外に集っていたという戦士たち、彼らに立ち向かっていたらしい反逆者、いずれも姿を消した後だった。
 そしてサイガの行く手を阻む者も現れなかった。
 背後の足音が追いつき、大きな手に肩を掴まれるまでは。
「西原くん、今、何かを見つけたのですか」
「何もねえよ」
 まりあの心配を突っぱね、重孝の制止を振り切る間に、全身の震えも寒気も収まっていた。立ち止まった両足はしっかりと舗装を踏みしめ、背筋は空に向けられた首をまっすぐに支えた。
 自ら言ったとおり、何もないとわかっていても、見上げずにいられなかった。
 叫ばずにいられなかった。
「ふざけんなてめえら! これで手打ちにしたつもりかよ!」
「……ど、どうされました……?」
「あいつ……俺の腕、持っていきやがった!!」


 ある年の八月、一人の画家が異国の地で事故に遭った。
 彼は奇跡的に命をつなぎ、帰国を果たしたのち、治療を受けながら新しい作品に取りかかった。
 翌年の三月、彼は故郷に近い病院で死んだ。
 完成した一枚の絵を前に微笑む姿を職員に発見されたとき、彼は既に息絶えていたという。